2017年11月20日
天皇論
小林よしのり さんの 漫画で知る 「 天皇論 平成29年 」 を読んだ。
この人のオールラウンドな正義感、常識論に感動し、素朴な疑問のいくつかが解決された。なかなかのマンガ家であり、人格者でもあることが判った。
◎ 素朴な疑問としての天皇とは、その権威とは。 ( 子供の質問に答える形で )
○ 天皇は世界的にも珍しい
日本の個性というか、
最大の特色なんだ。
天皇の仕事は
我々国民のために 祈ることなんだ。
「天皇って、いなくてもいいんじゃないの? 」 という質問に対して
いやいや、
これはすごい日本人の知恵なんだよ。
例えば日本では
金正日やヒットラーみたいな独裁者は生まれない。
それはこの天皇の権威のおかげだと言うこともできる。
そして、天皇は国民の安寧をひたすら祈るお立場でもある。
○ 「 万世一系って何? 」
皇紀2677年
天皇や皇室の永続性を表す時、 「 万世一系 」 と言う言葉が使われます。これは、初代・神武天皇から第125代・今上天皇まで、同一の系統によって継承され、そして今後も永久に一系統で続いていく、ということを表しています。
初代・神武天皇が橿原の宮で即位されたと伝えられているのが、西暦紀元前660年。それを元年(紀年)として数える、日本の紀年法を 「 皇紀(こうき) 」 といいます。
これによって、西暦紀元前660年から数えて、西暦2017年の現在は 「 皇紀2677年 」 ということになるんですね。ちなみに、西暦ADはイエスが生まれたとする年を起点とする紀年法です。
2600年以上もの間、古典の伝えでは、日本の天皇は存在し、一系統で続いてきたとされているのです!
( 万世一系ではなく、正しくは 「 萬(まん)葉(よう)一統(いっとう) 」 と言う言葉がありこちらの方が正しい表現のようです )
○ そろそろ天皇を尊崇すると戦争につながるとか、
日の丸を掲げると戦争になるとか、
馬鹿馬鹿しくも幼稚な迷信は一笑に付すべきではないか!?
天皇を「 神 」 と思い込んだのは「 少国民世代 」 だけである。昭和天皇自身が、「 天皇は国家の最高機関である。機関説でいいではないか 」 と仰っておられたのだ。
○ 中国について
シナの歴史は皇帝の歴史である。皇帝の歴史は紀元前221年、史上初の皇帝・始皇帝が秦王朝を建てた時に始まる。
したがって 「 シナ 」 の歴史は今年(2017年)で2238年だ。
「 中国 」 は中華民国から数えたら106年。中華人民共和国からならば、わずか68年にすぎない。
「 中国四千年 」 とか 「 五千年 」 とかいうのは今の中国人が20世紀に言い出した大嘘である。
紀元前221年以前は群雄割拠する戦国時代でシナは統一されていなかった。
秦以降、シナは何度も分裂と統一を繰り返すが、チベット、ウイグル、内モンゴル、台湾などの地域は、いつの 「 統一 」 でも 「 シナ 」 には含まれず、文明の届かぬ異民族の土地 「 化外(けがい)の地 」 とされていた。チベット、台湾などの周辺地域が歴史的に 「 中国 」 だったという現在の中国人の主張は大嘘である。
さらに言うと、19世紀まで存在しなかった 「 中国 」 なる国名を古代史にまで遡って使用することがそもそもの混乱の元凶なので、わしは歴史に関する記述はできるだけ 「 中国 」 は使わず 「 シナ ( 支那 ) 」 を用いることにしている。
シナ(支那)、言葉の由来[編集]
1938年(昭和13年)に日本で発売された「支那大地図」。この地図によれば、中華民国と満州国だけでなく、モンゴル人民共和国を「外蒙古」としてその範疇[3]に加え、またソ連に割譲させられた唐努烏梁海(トゥヴァ)をも入れている。また、いわゆる漢民族の居住地でない東トルキスタン(ウイグル)とチベット(地図では「西蔵」)も入っており、広範囲の地域名でもあった。
支那という言葉の語源は諸説あるが、明朝時代末期にこの地域にいたイタリア人イエズス会宣教師衛匡国(Martino Martini)による著作”Nuvus Atlas Sinensis”では、中原初の統一王朝秦(拼音: Qin, 梵語: Thin・Chin, ギリシャ語・ラテン語:Sinae)に由来するとされる[4]。衛匡国によれば、この秦の呼称が周辺諸国に伝わったが、現在のインドで転訛してシナになったとしている。これが一般的な通説とされるが、戦前の日本の地理学者の藤田元春などは反対説を主張している。その諸説によると交易品であった絹糸に由来するもの、民族名である「チャン族」あるいは、「インドから見て辺鄙で遠いところ」との意からきたともいう。なお、このシナの発音が西洋に伝わり英語の"China"フランス語の"Chine"などの語源ともなったといわれている。紀元2世紀前後にはインドで中国を指して「チーナ・スターナ"China staana"」と呼んでいた。この表記について徐作生は、1995年に雲南省西部の都市「支那城」に由来するという説を発表している[5]。インド側からポルトガルでは大航海時代から現代まで一貫してChinaとよぶ。ギリシャ、ラテン圏では国名、地域名は女性形になることが多く、秦の国名はシーナとなる。
インドから仏教が隋に伝来した当時、経典の中にある梵語「チーナ・スターナ"China staana"」を当時の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによって彼の地に伝来した。この時の当て字として、「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。そのため、「支那」はこの地域の当時の公用語からすれば外来語であり、当初は外国人からの呼称であったと言える。 ( ウイキペディアによる )
○ 「 公民 」 の思想
「 昔の武将が武力で天下を平定し、日本における実力的絶対支配となっても必ず天皇を仰いだのは、昔の人間が自主独立の精神がないために何かより以上の権威を必要としたからではなく、人間は古も今も社会生活国家生活には必ず権威を必要とする人間本来の性質に基づくものであり、そして、天皇を仰いだのは、天皇に日本民族社会の、日本民族国家生活の究極かつ最高の権威たる実質が見出されていたからである 」 (里見岸雄氏の見解)
天皇号の成立と同時期、すなわち推古天皇、聖徳太子の時代に、日本国内には
「 公民 」 の思想が生まれた。
それまでの民衆は、各豪族が私的に支配していた。
だが、豪族をすべて天皇の臣下として、民衆は豪族の私的支配から離し、
天皇一人の公的統治の下に置くべきだと聖徳太子は考えた。
「 天皇 」 の称号は国外に向けてはシナ文明圏からの独立を意味し、国内においては、民衆の公的で、公正・公平な統治を意味したのである。
聖徳太子は607年、第2回の遣唐使として小野妹子を派遣する。
「 日出ずる処の天使、書を日没する処の天子に致(いた)す。恙(つつが)無(な)きや 」
半年後第3回目の遣唐使は
「 東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す 」
ここにおいて我が国で初めて 「 天皇 」 の呼称が使われた。
○ 「 神まつる
昔の手ぶり 守らむと
旬(しゅん)祭(さい)に発たす 君をかしこむ 」
昭和天皇から受け継いだ
古代から続く祭祀の手ぶりを
しっかり守って、
自分も国民のために祈ろうと
誓いながら
陛下は旬祭に向かわれる。
これは皇后陛下 美智子さんが詠んだ歌である。
「 人の世の
非情に耐へて 人知れず
民のためにと 祈る天皇 」 わし作(小林よしのり)
◎ 天皇はわれわれの魂の中にある。
◎ 天皇を中心に置いた 「 支配なき自己統治 」 こそが日本の国体である!
と “ わし ” は叫んだ。
● 私(増澤)思いますに、毎年正月に宮中で皇室が歌を詠む行事、このような文化的行事が連綿と続いている高質な国は、世界広しと言えども日本だけである。
そして、伊集院静さんの最新刊の一節が深く心に残った
「 歴史を学ぶことは、自分を学ぶことですから 」
Posted by masuzawa05 at 06:30│Comments(0)