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増澤信一郎の心模様

2015年09月07日

学ぶよろこび

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 副題として― 創造と発見 ―とある、哲学者・梅原(うめはら) 猛(たけし) さんのエッセイを読んだ。
前掲の塩野さんの 「 哲学 」 というキーワードに魅かれたからだが、結果、哲学なるものの片鱗に触れられたような気がする。

 我々には他人(ひと)には言えない欠点や心のキズがあるものだが、それをバネに偉業を成し遂げた人がいる。

○大きな仕事は心の傷を埋める(ノーベル賞学者・湯川秀樹先生のコンプレックス)。

先生は京都大学に入学して、卒業した時の成績は三番だったそうです。こういうと 「 なるほど 」 と思うかもしれませんが、じつは、三人中で三番だったというんですよ。ノーベル賞をとったくらいだから一番だったのだろうと思いたいけど、そうではなくて、ビリだったんです。意外でしょう。
ところが、これがまた面白いんですよ。湯川先生が三番で、二番は誰だったかと言うと、やはりノーベル賞を受賞なさった朝永振一郎先生なんです。三人いて、そのうちのトップを除いた下の二人がノーベル賞をとっているわけです。
 秀才、学校の成績がいい人は、だいたい人気のある分野に進みますよね。
ところが湯川先生はそうじゃない。当時、量子力学なんてやる人がいなかった。日本の大学の物理学教室では、古典力学が中心だったんです。そういうなかで、一人、湯川先生は、新しい量子力学の研究を始めたんですね。そこが先生のすごいところです。
 そして、論文を書いた。湯川先生が中間子理論の論文を書いたのは、大学を卒業して間もなくのことなんです。それで、湯川先生は、その論文を先生の所に持って行って見てもらおうとしたけれど、先生にはまったくわからないんですよ。読んでももらえなかった。
 それではというのでアメリカの雑誌に送ったら、掲載してもらえた。それが、後年のノーベル賞につながるわけです。
 そのことを、私、湯川先生に尋ねたことがあるんです。 「 恩師も理解できないような、誰でもやっていない量子力学の研究を、どうして先生は始められたのですか 」 と。すると先生は、こうおっしゃったんです。
 「 私の心には、どういうわけか、子供のときから深い憂鬱があった。心の中にポッカリ穴があいていた。その大きな空白は、大きな仕事をしないと埋まらない。そういう思いがあった。だから、最初から私は小さな成功なんて望んではいなかった。そういう大きな、とてつもない大きなことを考えて、中間子という理論に取り組んだのです 」 と・・・。
 毎日毎日考えていたのだが、行きづまっていた。ところが、そこに室戸台風が来て、街中の樹木が倒れてしまった。その光景を見て、ふっとひらめいたという。余計な想念は吹っ飛んでしまい、非常にクリアーな数式で表現できる中間子の理論が思い浮かんだのです。

○学問と仮説:
いったい学問のお面白さとは何か。こう聞けばものを知ることだと言う人もいるでしょう。しかし、私はそういう風に考えないんです。学問というのは何か。それは発見なんです。じゃあ、発見とは何か。新しい仮説の提供なんです。仮説をつくることですよ、学問というのは。仮説なんだけど、それにもとづいて現象を説明すると、見事に説明できる。そういう仮説は真理性が高いと言わねばならないけれど、だが、それは真理であるとは言えないのです。
 まだこれからも、それ以上に単純で、現象をより明晰に説明する理論が生まれるかもしれない。そういう可能性が、いつも秘められているわけです。
 あるいは、その仮説で説明出来ない現象がいつ発見されるか知れないですよね。
 結局、学問というのは、自然科学でも、人文科学でも、すべて仮説なんです。その 「 仮説をつくり出すこと 」 が学問なんです。


ひらめく人 ( 無心な心を持つ )

孤立する勇気 ( 勇気がなければいけません )

傑作は未来にしかない ( 黒澤明監督曰く:芸術家にとって、傑作というものはありません。あるとすれば、それは未来の作品です。 )


◎二十一世紀の哲学

私は、学問に生きるという夢の人生を送ってきた。哲学という学問をすることが、私の夢なんです。
 哲学というのは、人間はどう生きるべきかということを考える学問です。これは、実証できないわけです。人類はどう生きるべきか、人類はどういままで生きてきたか、そして今後は、どう生きるべきか・・・と、いうのは巨大な仮説です。その仮説を提供するのが哲学です。

『 梅原日本学 』 発見あるいは創造について私が経験的に考えた幾つかのことを書き留める:

一、人間は知らないうちに、一つの色眼鏡を通してものを見ていること、そして発見とはその色眼鏡から自由になることである。
二、発見の前提は疑いである。
三、疑いには、裸の心と勇気が必要である。
四、発見には創造力が必要である。
五、生産的想像力を持つためには自由な心とともに、広い 「 知識 」 が必要である。想像力を養成するには一つの訓練が必要である。
六、発見はある日突然起こる。それは、向こうからやって来るもの。我々は一種の直感で、それを受け止めるだけである。
七、インスピレーションは疑いによって “ 冷却する ” ことにより、一層間違いのないものになること。
八、発見はいったんなされれば、すべてコロンブスの卵である。
九、認識は自ら体系を成してそこに世界を形成している ( 認識というものはすべて仮説に過ぎないと思われるが、その仮説でもって、多くの事実が説明される仮説は、少しの事実しか説明出来ない仮説よりも遥かに真理性が高いとしなくてはならない )
十、発見や創造を可能にするのは絶えざる認識の努力であり、それを可能にするのは、やはり、真理あるいは美に対する強い愛である。

◎私は五十年間の研究によって、日本の中心思想は 『 草木(そうもく)国土(こくど)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ) 』 という言葉で表現される、浄土・禅・法華(ほっけ)の鎌倉仏教の共通の思想的前提である 『 天台本(てんだいほん)覚(がく)思想(しそう) 』 にあるのではないかと思うようになった。
『 天台本覚思想 』 とは、人間や動物はもちろん、草木即ち植物、及び国土即ち鉱物や自然現象まで、総てに仏性(ぶっしょう)があって成仏するという思想である。

縄文時代及び弥生時代の最高の宝器は翡翠(ひすい)で出来た勾玉(まがたま)であるが、翡翠の色は雪の中から現れた “ 緑 ” を表し、勾玉の形は獣や鳥の “ 姿 ” をを表す。即ち翡翠は植物の霊、勾玉の形は動物の霊を表したものであると言える。それ故、翡翠の勾玉は植物・動物の霊の崇拝を示すものであり、このような伝統が仏教を日本化し、 『 草木国土悉皆成仏 』いう思想を生み出したと考えてよかろう。



●私(増澤)思いますに、日本人の森羅万象に神や仏が宿るという自然崇拝の感性は、それ自体が日本人のしなやかで強靭な哲学であり、生きるための指針であると思っている。

人間という愛すべき生きものをもっと広く豊かな心で慈しみたい。

私が設計に於いて、いつも標榜している “ 心を形に表す ” という言葉から派生し、 “ 和とは 天地自然と一体になること ” と解している設計哲学、キャッチフレーズは、梅原哲学からみても、当たらずとも遠からずと言えるのではないでしょうか。


Posted by masuzawa05 at 06:00│Comments(0)
 
心を形に表す
建築空間にはいろいろの「想い」がある。
具体的な平面から容積のある空間へと立ち上げるさまざまな作業の中で、オーナーの使い勝手や心情が、私の心を通して色づいていく。
思い入れ豊かに熟成された建築空間には、オリジナルでしなやかな空気が息づき始める。
豊潤で美しく、時に凛々しい。
機能的であることは大切なことですが、美的な創意工夫も大切な要素です。
そう思いながら設計しています。


増澤信一郎
S22年10月11日生まれ
芝浦工業大学建築工学科卒業
静岡県伊東市宇佐美在住
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