2012年03月05日
MY辞書より・その4 ( 遊 )
● 私(増澤)の好きな白川さんのことから。
◎ 一番好きな言葉は 『 遊 』 白川静はそう語っていた。
< 遊ぶものは神である。神のみが遊ぶことが出来た。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことが出来た >
白川が雑誌 『 遊 』 に連載したのは昭和53年から54年にかけて。執筆を依頼した当時の編集長、松岡正剛さんによると、誌名と好きな言葉が一致しているのは偶然だったようだ。 「 一番好きな言葉が 『 遊 』 だったというのは、ずいぶん後から知りました。うれしかったですねえ 」
遊: それは、隠れたる神の出遊を意味する、と白川は説く。
< かつて世界は、閉ざされた空間であった > どこへでもでかけることができて、この地上のどんな辺境のことでも映像や情報を共有してしまっている現代人には、想像しにくい。だけど < 古い時代には、見知らぬ地には悪霊がみちみちていた > のだ。生活空間を広げるのは、簡単に出来ることではなかった。異民族や野生動物や悪天候や地勢・・・・。出かけることさえ命がけで 「 呪力 」 の助けを必要とした。
冒頭に記した 「 遊字論 」 の一文は、こんな風に続いていく。
< 遊とはうごくことである。常には動かざるものが動く時に、遊は意味的な行為となる。(中略)神は常には隠れたるものである。それは尋ねることによって、はじめて所在の知られるものであった >
松岡正剛は自著 「 遊行の博物学 」 の中でこう述べています:
どの民族の文化史においてもそうであったように、この国にも、二種類の遊び方があったようだ。それをごくおおざっぱに言えば、 「 神の遊び 」 と 「 人の遊び 」 である。まず 「 神の遊び 」 は今でも 「 あそばします 」 とか 「 御覧あそばせ 」 などという言葉がつかわれている。のべつまくなしにつかわれるわけではない。本来は過分の客にたいしてつかわれる。さらに本来は神についてつかわれた。あそばしますもの、それは神において遊ばせるということだ。
神はときおり出遊するものである。かならずしも鎮座していない。たとえば神無月という言葉は、神々が出雲へ遊びに出かけてしまって各神社が留守になったという月のことをいう。・・・中略、
「 神の遊び 」 にたいして 「 人の遊び 」 がある。分類すればこのようになるのだが、むろん当初はこのふたつは神人交感してつながっていた。 「 人の遊び 」 はまず 「 神の遊び 」 をもてなすことにはじまった。もてなすには相手を知る必要がある。しかも相手は神である。とりあえずは神の力を借りてみるしかなかった。 云々。
● ・・・で私(増澤)、新聞の 「 かんのん道をゆく 」 を読んでいて、はたと気がついた。 ( 観音さまは男なのか女なのか、論争は後で述べるとして )
これは、 9世紀・平安時代前期 法華寺 「 十一面観音立像 」 です。
○ 唇の赤さ、眼の黒さ、量感豊かな体が妖しい美を放射する。光明皇后の伝承で親しまれている。
右足に注目したい。親指をわずかに反らせ、一歩、見る者の方へ踏み出す気配を見せている。 『 遊び足 』 といい、優雅で女性らしいたおやかさである。
● 動きを表現することは、動かないものの心を表現することである。そして動こうとする心が ‘ 遊び心 ’ に通ずるとは・・・。観音さまは、どこに向かって動こうとしているのか、崇高で艶めかしい遊行のお姿。
もう一度、写真左下、右足の 『 遊び足 』 をご覧いただきたい。
● 若手能楽師の観世喜正さんが能の粋を今に伝えるべく 「 能楽神遊(かみあそび) 」 という会を結成して15年になるという。能楽のもとは、寺社の祭事における平和と五穀豊穣を祈願する翁猿楽という芸能だ。会の名前は 「 八百万の神遊(あそび)、これぞ神楽のはじめなる 」 という謡の一節から名付けたという。ここでも神の遊びと人の遊びが ‘ 感謝の気持ち ’ を繋ぎとして連綿と続いていることを思うと、神の出遊は気まぐれではなく 「 季節のみのり 」 に合わせた人の営みと重なっている。
○ ここでもう一つの MY辞書より
古来男性を表わした観音像、優しい女性的な姿で魅了:
仏教では世界を地獄界から仏界まで十界に区分する。このうち、声聞、縁覚、菩薩、仏の四界は悟りの世界で理想境とされる。これらの世界に住む者は絶対の力を持ち、休むことなく衆生を救うための努力を続けている。この菩薩界に、女性にみなされがちな観音がいるのだが、四つの悟りの世界にいるのは男性だけなのである。観音菩薩を含め菩薩はすべて男性なのだ。よく見るとヒゲの有るものもある。
● 私(増澤)思いますに、優しさゆえに女性的でもあり、両性具有ともとれる。阿修羅像など美少女風美少年でなまめかしい。
じっとしていては面白くない。
遊びに動き出す心の変化、そして、心の動きに伴う具体的な初動に表れるのが観音様の 「 遊び足 」 とすると、足を動かさなければ心が動けないという逆説にも通じているようにも思える。足の動きが、心の変化を伴って私の心に訴えてくる。ならば遊び心の第一歩にみる ‘ 足 ’ の表情に、奥ゆかしくも艶めかしい人の営みを感ずる。
そろそろ “ 私も動いてみようか ” と 下世話な遊び心が疼き出す!
Posted by masuzawa05 at 09:31│Comments(0)