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増澤信一郎の心模様

2010年02月01日

写真家の感性に学ぶ・その3( 生き物たちの宇宙 )

   
● 私(増澤)思いますに、彼( 星野道夫 )はアラスカの大地、動植物、そして自分自身さえも風景と一体になりたかったのだろう。そうしていると 『 優しさ 』 が繋ぎになり、いつしか空気のように全てが溶け合って一つになる。その為に、何のガードもなしにその中に埋没していく。そして大自然の風となる。
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◎ いつか おまえに 会いたかった

遠い こどもの日
おまえは ものがたりの中にいた
ところが あるとき
ふしぎな体験をした
町の中で ふと
おまえの存在を 感じたんだ
電車にゆられているとき
横断歩道を わたろうとする しゅんかん
おまえは
見知らぬ 山の中で
ぐいぐいと 草をかきわけながら
大きな倒木を
のりこえているかもしれないことに
気がついたんだ

気がついたんだ
おれたちに 同じ時間が 流れていることに


○ これほど春を告げる光景を見たことがない
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○ ドールシープは高山地帯に生息する
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○ 五月の息吹、ムースの新しい生命がどこかで生まれている。
ある日森の中で、二頭の仔ジカを連れたムースに出会うだろう。
けれども近づいてはいけない。仔どもをもった雌はとても緊張しているのだ。
母親はその大きな耳をアンテナのように動かしながら、
森の中のわずかな物音さえ逃そうとしない。
オオカミ、そして冬ごもりから覚めたばかりの腹をすかしたグリズリーが、
この新しい生命を狙っているのだ。
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○ 草を食むウサギ
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○ チュルル!
トウヒの森のしじまを破り、
アカリスの警戒音が聞こえてくる。
僕の好きな極北の小動物。
トウヒの種子を食物にして、
残ったマツカサの殻は木の根元にうずたかく積まれ、
その山の中に越冬食料を貯えている。
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○ オオカミ
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○ 川沿いの土手を歩いてゆくと、
なぜかそこだけに
花が咲き乱れている
ホッキョクギツネの巣があった。
長い歳月の中で、
幾世代にもわたる
ホッキョクギツネの排泄物が、
大地に栄養を与えてきたからだ。
白夜の風に吹かれながら、
じっと待ち続けていると、
やがて仔ギツネが巣穴から姿を現し、
花の中でたわむれている。
ツンドラの彼方から、
狩を終えた母ギツネが、
獲物をくわえて走って戻ってきた。
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○ アラスカの自然を旅していると、
たとえ出会わなくても、いつもどこかにクマの存在を意識する
今の世の中でそれはなんと贅沢なことなのだろう。
クマの存在が、人間が忘れている生物としての緊張感を呼び起こしてくれるからだ。
もしこの土地からクマが消え、野営の夜、何も恐れずに眠ることができたなら、それは何とつまらぬ自然なのだろう。
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○ ホッキョクジリス
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○ オコジョ
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○ ある日、風が運んできた雌の匂いに魅き付けられ、
森を抜け、川を渡り、さらに別の森に入ると、
雌の群れを囲いながら戦士のように立っている雄のムースに出会うだろう。
夏の間に貯えた脂肪が鎧のように身体を覆い、
輝くような肉体に変貌している。
繁殖というただひとつの目的に向かい、
テリトリーを奪い合う雄同士の戦いが始まってゆくのである。
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○ 山の谷間のガレ場を横切っていると、
どこからかピッ、ピッ、と、何とも可愛らしい泣き声が聞こえてきました。
あたりをぢっと見渡すと、大きな岩のてっぺんにナキウサギが座っています。
口にはもうこれ以上入らないほどの枯れ草をくわえています。
矢のように走り出したナキウサギの行方を追い、
それらしき岩の間をかがんでのぞいてみると、
そこにはベッドのようにきれいに積まれた枯れ草がありました。
来るべき長い冬のために少しずつ蓄えているのです。
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○ カナダヤマアラシ
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○ アラスカの原野を歩く一頭のグリズリーから、
マイナス五〇度の寒気の中でさえずる一羽のシジュウカラから、
どうして僕たちは目を離せないのだろうか。
それはきっと、そのクマや小鳥を見つめながら、
無意識のうちに、彼等の生命を通して自分の生命をみているからなのかもしれな  い。
自然に対する興味の行きつく果ては、
自分自身の生命、生きていることの不思議さに他ならないからだ。
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○ ぼくは ( 麻酔で眠った ) クマのそばに腰をおろし、
ごわごわとした体毛を撫でながら、その一本一本の毛の感触を確かめていた。
手入れをしたような汚れのなさに、
人間の想像とは裏腹の、野生に生きるもののかぐわしさを感じていた。
掌を口に当てると、かすかな息が暖かかった。
人差し指をそっと口の中に入れてみた。
指先がクマの体温に包まれていった。
おなかに顔をうずめると、香ばしい匂いと肌のぬくもりが顔面に広がってくる。
ぼくは深呼吸するように、遠い野生の匂いを記憶に残そうとした。
                以上 「星野道夫の仕事」・本文より抜粋。
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◎ 作家の池澤夏樹さんはこう述べています:

人の手になるものは時として醜いが、自然には醜いものがない。すべてが美しい。この単純な事実になぜ人は気がつかないのか。醜いというのは結局のところ、自分たちが作り出したものに対するわれわれの自己嫌悪ではないのか。自然は砂の一粒、葉の一枚から、大陸を縦断する山脈まで、銀河系の全体まで、すべて美しい。その中に、たぶん人の目から見て特に美しさが濃い部分があって、写真家はそれを求めて旅をするのだ。ムースは疾駆する姿が美しく、遠くにたたずむ姿が美しく、育児する姿が美しく、死んで骨になってもまだ美しい。
 自然はそれ自体が祝福である。地球の上に生きるものたちがいて、彼等の営みから風景が作り出される。そのことがすでに価値であり、善であり、喜びである。人もまた生き物だから、いささか道から外れてしまって不自然な生き方をしていても、世界を喜びとして受け取る姿勢はまだ持っている。そこへ戻ろうという気持ちもある。泳ぐ仔グマと、彼を浮かべた水、取り囲む山々、覆っている天からなる図を、全精神的な共感を持って見ることができる。
 星野道夫の写真の土台にあるのは幸福感である。一時的にせよ自然の中に帰ったときの、絶対に揺らぐことのない幸福感。それが彼の作品の中にそっくり写っていることを、ぼくたちは喜ぶ。      文中より抜粋。



 ● この巻の冒頭にも述べたが、読み終わってつくづく思う、自然に溶け込み一体になるためには、自分の存在すら忘れ、ひたすら風になること・・・、自然からの脅威を感じていたら、風になれないのだ。

風になることで撮れた風景である。

彼がロシアのカムチャッカ半島で熊に襲われ果てたのは、私には悲しくやるせないのだが・・・アラスカの自然の章でそうなることを予感していたようである。そして、一連の流れの必然とも思える・・・!?  

いや、むしろそれを望んでいたふしがある。


Posted by masuzawa05 at 12:54│Comments(0)
 
心を形に表す
建築空間にはいろいろの「想い」がある。
具体的な平面から容積のある空間へと立ち上げるさまざまな作業の中で、オーナーの使い勝手や心情が、私の心を通して色づいていく。
思い入れ豊かに熟成された建築空間には、オリジナルでしなやかな空気が息づき始める。
豊潤で美しく、時に凛々しい。
機能的であることは大切なことですが、美的な創意工夫も大切な要素です。
そう思いながら設計しています。


増澤信一郎
S22年10月11日生まれ
芝浦工業大学建築工学科卒業
静岡県伊東市宇佐美在住
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