2009年01月07日
ちょっといい話・その5
誰しも不安に駆られることが多いい、仕事のこと、お金のこと、恋愛、自分の来し方行く末、 そんな時出会った 一文。
『 喜びは不安に由来する 』
夕暮れの街を歩いている時などに、ふと、理由の無い不安の発作にかられることがある。
子どもの頃からそうだった。大人になって、社会に慣れ、自分の居場所のようなものができ、普段はそんなことを意識しなくなっても、なお時々発作に襲われる。
誰でも例外なく裸で生まれてくる。産み落とされた私たちはすぐに産着で包まれ、社会の網の中へと接続される。
「 自分は何ものなのか ? 」
その根源的な問いを、私たちは次第に正面からは問わずに済ませてしまうようになる。夕暮れの街を一人用も無く歩くというような、仕事でもプライベートでもない、特定の文脈から突き放された場所に身を置く時に、初めて 「 自分は何ものなのか 」 と改めて問い直すことができる。夕暮れ現場から立ち上がる何ものかが、私のこころをかきむしるのだろう。
それは、決して死の恐れなどではない。むしろ、生きることそのもののど真ん中にかかわるような何かである。そのとき、私は、むしろ十全に呼吸している。 「 ああ、私は生きているのだ 」 と実感する。若々しさの中で戦慄しているのだ。 (戦慄:恐れて身震いすること)
ああ、世界は、なんと生きることの不安に満ちた場所なのだろう。然し、生命の最も甘美な夢は、その不安こそ母としているはずだ。生きる。そして死ぬ。不安だからこそ、希望を抱く。そのような太古から変わらぬ教えが、私が夕暮れに時折感じる何ともいえない不安の中に潜んでいるように思われる。
人間が社会の中で巻き込まれる軋轢(不和)や混乱も、同種間の社会的相互作用に起因している。それは、一方では愛や友情に結実する福音となるが、一方では私たちの存在を根本から揺るがす事態ともなる。恋のさや当て。男の嫉妬。敵愾心。
他人に対する温かい気持ちを忘れてしまってはいけないが、その一方で、人とのつながりの中におぼれてしまっては、魂の切れ味がにぶる。 「 非人情 」 の通奏低音が響いてこそ、人と触れ合う温かさが身にしみる。
非人情と人情の緊張関係に身を置いてこそ、胸がざわめく。生きるということは、基本的に 「 どうなるかわからない 」 という不安定の縁に自分を置くということである。安定と不安定の間の緊張関係こそが、生命原理の本質である。物質の存在形態として一番安定しているのは結晶だが、それでは生きていることにはならない。
夕暮れの街で、自分を包んでいる関係性が解かれていく。自分がどこから来てどこに流れていくのか。何を後生大事に抱えていくのか。如何に糊口( かゆをすする、生活をすること )を凌いでいくのか。どんな夢を抱くのか。何を恐れるのか。そんなことの全てが揺らぎ、生きるということの偶有性(本質的ではなく偶然的なこと)が露になるとき、 「 生きている! 」 と最も強く確信することができる。
一体何故なのか。その根本的な理由がわからないままに私たちは生まれ、そして死んでいく。考えようによっては限りなく哀れな私たちの人生。しかし、そんなささやかな人生の最も深き喜びは、この先どうなるかわからないという不安こそに由来する。不安の中に生まれ、不安の中に死んでいく。それで良いと思えば、人生はきっと私たちを抱きしめてくれる。
以上、「風の旅人」 より抜粋。
未だ、そんな境地にはなれないのだが、不安がいつも私(増澤)を覆っている。
そして、不安の雲間から射す一条の光 ( 「 そうなんだ! 」 という些細な納得 ) が、 時折私を喜びと共に包むとき、ほっとする。
そのことの連続が生きるということなのだろうか。
『 喜びは不安に由来する 』
夕暮れの街を歩いている時などに、ふと、理由の無い不安の発作にかられることがある。
子どもの頃からそうだった。大人になって、社会に慣れ、自分の居場所のようなものができ、普段はそんなことを意識しなくなっても、なお時々発作に襲われる。
誰でも例外なく裸で生まれてくる。産み落とされた私たちはすぐに産着で包まれ、社会の網の中へと接続される。
「 自分は何ものなのか ? 」
その根源的な問いを、私たちは次第に正面からは問わずに済ませてしまうようになる。夕暮れの街を一人用も無く歩くというような、仕事でもプライベートでもない、特定の文脈から突き放された場所に身を置く時に、初めて 「 自分は何ものなのか 」 と改めて問い直すことができる。夕暮れ現場から立ち上がる何ものかが、私のこころをかきむしるのだろう。
それは、決して死の恐れなどではない。むしろ、生きることそのもののど真ん中にかかわるような何かである。そのとき、私は、むしろ十全に呼吸している。 「 ああ、私は生きているのだ 」 と実感する。若々しさの中で戦慄しているのだ。 (戦慄:恐れて身震いすること)
ああ、世界は、なんと生きることの不安に満ちた場所なのだろう。然し、生命の最も甘美な夢は、その不安こそ母としているはずだ。生きる。そして死ぬ。不安だからこそ、希望を抱く。そのような太古から変わらぬ教えが、私が夕暮れに時折感じる何ともいえない不安の中に潜んでいるように思われる。
人間が社会の中で巻き込まれる軋轢(不和)や混乱も、同種間の社会的相互作用に起因している。それは、一方では愛や友情に結実する福音となるが、一方では私たちの存在を根本から揺るがす事態ともなる。恋のさや当て。男の嫉妬。敵愾心。
他人に対する温かい気持ちを忘れてしまってはいけないが、その一方で、人とのつながりの中におぼれてしまっては、魂の切れ味がにぶる。 「 非人情 」 の通奏低音が響いてこそ、人と触れ合う温かさが身にしみる。
非人情と人情の緊張関係に身を置いてこそ、胸がざわめく。生きるということは、基本的に 「 どうなるかわからない 」 という不安定の縁に自分を置くということである。安定と不安定の間の緊張関係こそが、生命原理の本質である。物質の存在形態として一番安定しているのは結晶だが、それでは生きていることにはならない。
夕暮れの街で、自分を包んでいる関係性が解かれていく。自分がどこから来てどこに流れていくのか。何を後生大事に抱えていくのか。如何に糊口( かゆをすする、生活をすること )を凌いでいくのか。どんな夢を抱くのか。何を恐れるのか。そんなことの全てが揺らぎ、生きるということの偶有性(本質的ではなく偶然的なこと)が露になるとき、 「 生きている! 」 と最も強く確信することができる。
一体何故なのか。その根本的な理由がわからないままに私たちは生まれ、そして死んでいく。考えようによっては限りなく哀れな私たちの人生。しかし、そんなささやかな人生の最も深き喜びは、この先どうなるかわからないという不安こそに由来する。不安の中に生まれ、不安の中に死んでいく。それで良いと思えば、人生はきっと私たちを抱きしめてくれる。
以上、「風の旅人」 より抜粋。
未だ、そんな境地にはなれないのだが、不安がいつも私(増澤)を覆っている。
そして、不安の雲間から射す一条の光 ( 「 そうなんだ! 」 という些細な納得 ) が、 時折私を喜びと共に包むとき、ほっとする。
そのことの連続が生きるということなのだろうか。
Posted by masuzawa05 at 14:07│Comments(0)