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増澤信一郎の心模様

2007年12月17日

ちょっといい話・その3

 命と向き合う(小学館) という本に私の好きな三人のお医者さんが登場します。

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○ 先鋒 として 中川恵一さん(東京大学医学部付属病院緩和ケア診療部長)

・ 日本人と がん:

 がんがふえています。いまや、日本人の2人に1人ががんにかかり、3人に1人ががんで死亡しています。さらに10年後には、2人に1人ががんで死亡すると予想されています。まさに国民病です。
 がんの原因は、細胞分裂の失敗で、老化の一種といえるため、急速な高齢化によって、がんの発生が急増しているのです。
 ところが、 「 永遠に生きる 」 つもりでは、 「 がんとの賢い付き合い方 」 ができません。実際、激しい痛みの中、痛み止めの薬を拒否し、抗がん剤の副作用に苦しみながら亡くなっていった多くの患者さんたちの、壮絶な死が思い出されます。まさに、 「 がんの壁です 」
 日本には、いまなお、 「 がん治療=手術 」 というイメージが存在します。    
この 「 手術信仰 」 の背景にも、 「 悪いところを取り除いて、完全な体を得て、永久に生きたい 」 という心理が作用している気がします。実際には、命には限りがあります。体は一種の 「 消耗品 」 です。治療法の効果や、治療に要するコストや後遺症を十分吟味して、個々人の人生にふさわしい治療を賢く選択するべきなのです。

 生命が永遠であれば、5年生存率を高めることが大事かもしれません。しかし、人間の死亡率は100%です。そもそも、超高齢化社会では、人生の豊かさは、時間の長さとは別であると考えます。 豊かな人生は、豊かな瞬間の積み重ねです。 一瞬、一瞬を大事に生きるしか、人生を豊かにする方法はありません。 そのためには、がんの痛みに耐えている時間など無いのです。
 「 命には限りがあり、それゆえ、尊い 」 ということをもう一度考える必要があります。 「 がんになって、このことに気づいた、がんになってよかった 」 という患者さんは少なくありません。人生の時間を、各人に与えられた資源と考え、大事に使っていくという気持ちが必要です。

 筆者も、がんで死にたいと思っています。心臓病や事故などで死ぬのと比べたら、がんは数か月から数年の時間があります。その間に、仕事をまとめたり、身辺整理をしたりして、人生の幕引きができます。そういう時間があるのは、とてもいいことです。適切な緩和ケアで症状をとりながら、限られた時間を豊かに過ごすことが、 「 がんの壁 」 への処方箋です。


○ 次峰 として 養老孟司さん(東京大学名誉教授)

・ 親子は親子だろう!・・・ 5億年の体を 5万年の脳が 理解できるか:

よく小児科で出る質問だそうですが、「 動物は育児書なんか読まないのに、どうも上手に子育てしてるように見えますが、どうしてですか? 」 という保護者がいる。

よく考えればこれは当たり前で、人間が今のような脳みそを持って、ものを理解しようなんてはじめたのは、たかだか20万年たらずですよ。 言葉を本気で使い出したのはせいぜい5万年です。 動物の親子関係って何年前から始まった?  おそらく5億年前といったところでしょう。

 そうしたら、5億年前からある親子関係に対する信頼なくして、親子の理解を促進するといったって意味が無いでしょ。おそらく昔の人だったら、「 親子ってなんだ? 」と聞かれたら、 「 親子は親子だろ! 」 って一言ですむでしょう。
 つまり、人間の脳みそなんて、ものを考えるようになったのはつい最近の話じゃないかということです。 そんなものは5億年来続いている体の邪魔をしているだけじゃないか、という考え方が当然あっていいわけです。

 近代化、効率化のなかで近代人は頭で生きるようになってきた。 だから東大医学部があるんです。つまり頭です。入試は頭が悪かったら入れないです。 そうしたら、やっぱり人間は意識的な動物ですから、意識で生きていく、というふうにみんなが思い込み始めた。

 しかしながら、最後に残っているのは体です。体のほうがよっぽど長持ちします。  意識なんていうのは、たかだか5万年の歴史と思ってください。そんなわずかな時間しか経ていないものが考えて、りっぱな答えが出ると思ってるのは、意識の完全な思い上がりです。 5億年以上かかってできてきた体を、せいぜい5万年しかたっていない頭が理解できると思ってるほうがおかしいよなあ というのが、老人の感想でございます。

 私(増澤)、思いますに、意識的に造った建築空間の中で、動物としての人間の体はすんなりと理想的に動いて馴染んでくれるのだろうかと? 動物的感性を伴った空間デザインが必要なのかもしれない。 頭デッカチな理屈 ではなく、動物的勘、いいものはいい! それが大切。

施主は納得しないかもしれませんが、数十年の物造りの動物的感性を喚起する術(すべ)を磨く、結果としての作品(商品)、それはそれでいいのだ。と、思いたい。


○ 中堅として 和田秀樹さん(国際医療福祉大学大学院教授)

・ 日本人と老い:

 最近思うのですが、 「 老い 」 というものに関して、やはり世の中のスタンスが変わってきているんじゃないか。もしくは 「 日本人と老い 」 ということを考えたときに、少なくとも 「 老い 」 にまつわる考え方が、2通りあるんじゃないかと考えています。
 一つは、 「 老いと闘う 」 ということです。 「 闘う 」 ということになれば、当然、若返りを図る、ということになります。要するに、70歳なのに、 「 あなた、70歳に見えないわね 」 とか、実際の年に見えないということは、だれでもというわけではないでしょうが、多くの人にとっては嬉しいですよね。
 医学の分野でも 「 老い 」に対しては同じようなことが言えます。いま、老化予防とかアンチエイジングということがさかんにいわれ、花盛りといってもいい状態です。
 「 老いと闘う 」 ということが、日本では、医学の世界であれ、あるいはゲームの世界であれ、あるいは美容の世界であれ、もうメインストリームになってきつつあるわけです。

 ただその一方で 「 老いを受け入れる 」 という発想も、おそらく日本にもあったのではないかと思います。たとえば、赤瀬川原平さんの 『 老人力 』 という本があります。それまでだったら、人の名前を忘れるということは、老化の始まりみたいな、割と否定的な見方だったんですが、 「 老人力 」 ということで考えると、 「 それだけまっとうな 」 老人になったみたいな、 「 まあ老化なんてどうでもいいや 」、 あるいは 「 いやなことを忘れることができる 」 とか、モノにこだわらなくなったという意味で、老化をむしろ肯定的にとらえようというのが赤瀬川さんの意見です。
 老いて後、われわれはよく 「 がまん 」 ということをいいます。たとえば 「 肉を食べるのをがまんしよう 」 「 塩辛いものをがまんしよう 」 「 タバコをがまんしよう 」といった具合に、でもむしろ高齢者こそが、がまんしないほうがいいのかもしれない、がまんのない生き方のほうが幸せなのかもしれない。ふだん 「 がまんしていると何かいいことをしている 」 というような錯覚がありますが、でもそれがかえって寿命を縮めたり、寝たきりを早めたり、医療費を余計に使う原因になったり、ということにつながるのかもしれません。

 こういう 「 がまんと寿命 」 みたいな研究が始まってくれるといいと思います。

 たとえば、ある老人ホームでタバコを吸っている群と吸ってない群で、生存曲線に差が無いという論文もあります。 また、糖尿病の人のほうがアルツハイマーが少ないとか、コレストロール値の高い人のほうがうつ病に掛かりにくいとか、因果関係はわかりにくく、つまり、老年期に関しては、何が体によく、何が体に悪いのかというのは、青年期、中年期にくらべて、現実には、われわれが思っているほど、よくわかっていないですね。

 キリスト教文明の中で、とくに原理主義みたいなアメリカ的な考え方によれば、若くて勤勉で、働き者というような人がいいというキリスト教文明に対して、 東洋の文明の中では、たとえば高齢者を敬いましょうとか、運命の受容を説きましょうとか、あるいは多少自己愛的であったとしても、それはそれで人間ってしょうがないじゃないの、見たいな事を言っているわけです。 これはたぶんキリストが30歳前に亡くなってしまい、年寄りの気持ちがわからない ということも原因にあるのかもしれません。
 「 老いているだけで価値がある 」・・・・・!?
昔・人生50年といわれたずっとずーっと以前に、 孔子は73歳  お釈迦様は80歳まで生きたから、年寄りの気持ちがわかっていたんじゃあないか と想像するわけです。

 われわれが、医療とか医学などをやっていく中で、100%の死亡率に至る前の
「 老い 」 に対してどう向き合っていくかということが、次の時代の大きなテーマになっていくんじゃないかというふうに思っています。

武道の試合で言えば 先鋒・次峰・中堅の後は 副将→大将と続くわけですが今回は3人だけです。

死亡率 100% わかっているようでわかっていない私、分かりたくない私、 老いは足音も無く平等に訪れる。                                             
                                         
わかっていない私から、わかろうとする私へ。 されば、少しは暢気に・少しは優しくなれるかもしれません。


Posted by masuzawa05 at 09:55│Comments(0)
 
心を形に表す
建築空間にはいろいろの「想い」がある。
具体的な平面から容積のある空間へと立ち上げるさまざまな作業の中で、オーナーの使い勝手や心情が、私の心を通して色づいていく。
思い入れ豊かに熟成された建築空間には、オリジナルでしなやかな空気が息づき始める。
豊潤で美しく、時に凛々しい。
機能的であることは大切なことですが、美的な創意工夫も大切な要素です。
そう思いながら設計しています。


増澤信一郎
S22年10月11日生まれ
芝浦工業大学建築工学科卒業
静岡県伊東市宇佐美在住
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