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増澤信一郎の心模様 石井建築事務所ブログ

2011年10月31日

駒形・どぜう

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 一度行きたいと思っていた、1801年 ( 江戸時代・寛政13年 ) 創業・浅草の駒形 ( 初代越後屋助七 ) に 娘に誘われて 「 どぜうなべ 」 を食べに行った。

初めての有名どぜう店だったが、ざっくばらんな雰囲気の中、気の利いた接遇・間合いが 流石だ。
 
なんとも “ うまい ” の一言に尽きる。

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まったりとした味の鰌がうまいのはタレがいいからだろうか、たっぷりのネギとゴボウが加わるとこれがまたいい! 

酒を喰らった酔いどれどぜうが、鉄鍋の甘ダレ味噌に浮かぶササガキ牛蒡とキザミ葱の浮き藻の下に並んで身を隠す風情。

鉄鍋の甘味噌に浸かって眠るどぜう達。ちんちんとした炭火に炊かれ、哀れ、牛蒡と葱の蓑を纏い、山椒・七味をまぶせられ、芳醇な薫りを放ちつつ、辛口の燗酒とともに哀れ胃袋に収まる至福の瞬(とき)。

 これまた細身徳利の形がいい!

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○ 鳥のつくねも食べる ( 半熟温泉卵と絡めて )

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○ 鯨鍋も食べる

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○ 枡酒もグビる ( 奥さんが娘の会社の同僚で、若旦那が差し入れしてくれた伏見の冷酒をグビグビ! )

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○ 柳川鍋も食べる

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● 食べに食べ! 飲みに飲み! ヤッパシ “ どぜう ” はここのどぜう鍋に限ると思った。・・・旅館でたまに出る柳川は邪道かも?!

  浴衣を着た女子従業員の気配り、にこやかな接客が素晴らしい。さすが伝統に裏打ちされた老舗の格であろう。いっぺんにファンになってしまった。


◎ どぜうなべ: 
生きたどぜうにお酒をかけ、酔ったどぜうを甘味噌仕立てのしるに入れて煮込みます。このどぜうを鉄なべに並べて、ねぎをたっぷりのせて召し上がるのが昔からの味わい方です。このねぎを食べたくて訪れる客が多いそうです、分かる気がする。
 
因みにどぜうは大分の綺麗な水で養殖したものを使用しているそうで、そのせいか、売れない歌舞伎役者のような面持ちの ‘ 野田どぜう ’ 程は泥臭くない。


○ 締めはたっぷりの御新香とどぜう汁を従えた、卵かけご飯です。

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● 七輪、炭火、鉄鍋・どぜう、キザミ葱、ササガキ牛蒡・山椒に七味唐辛子、粋なお銚子に入った辛口のお酒、ざっくばらんにぽんぽんと鍋を置いてゆく、絶妙な間合いの給仕。 庶民の味に生き続ける江戸文化そのものだ! 心地よい疲れと満腹感でなによりでした。


火照ったからだでどぜうを食べた古狸のように眠りこけ、あぶなく新幹線熱海、伊東線宇佐美駅を乗り越しそうになりました。・・・やれやれでした。


 又ぞろ、 駒方どぜう を食べたいと思う不思議・・・。
  

Posted by masuzawa05 at 10:09Comments(0)

2011年10月24日

いまを生きることば

先月、一つ年下の建築士仲間が自殺した。 長幼の序をわきまえたナイスガイだった。

 生きている
 だけで
 意味があるのに・・・・・。

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◎ 他力の風 ( 五木寛之 ):

 他力というのは、なにか大きな目に見えない力が自分の生き方を支えていてくれているのだ、という感覚なのです。
 目に見えないということから、なにかカルト的、超自然的なものと考える必要はありません。自分以外の他のものが、この自分という存在を支えている。「 謙虚に受け取る 」ということが、他力の一番根ところにあるものだろうと思います。
 他力ということばを、違った言い方ですれば、目にははっきり見えないが、大きな宇宙のようなもの、エネルギーのようなもの、そういうものが生命や物質の間に見えない風のように流れている。
 ではそれは運命論かといえば、運命論でも宿命論でもありません。他力というものを感じるときに、人間はとても自由になれる、そういうものだろうと思います。そのときの感覚こそじつは 「 他力 」 と言うのではないかと思ってきました。

 「 他力 」 ということばが生れてくる前の段階にあるものは、「 諦める(あきらめる) 」 という感覚です。

 諦めるというのは、物事を投げやりにするとか、いい加減に放り出すことではなく、「 あきらかに究める 」 という意味です。
 
 ギリギリの最後の真実まで目を逸らさずに、しっかりとそれを確かめる。あきらかに究めて、人間は自分の力でなにもかもやれるように見えるけれど、しかし人間の力が及ぶところはここまでなんだな、ということを非常に冷静に謙虚に受け止める。これがじつは諦めるということの本当の意味だろうと思います。
 あきらかに究めたことというのは 「 自力では諦めきれぬと諦めた 」 ということではなかろうかと思うのです。

 人間は必ずしも自分の思う通りにできるものではありません。どうしても、それができない時もあれば、思いがけずそれが持続して、ビックリするような成果をあげることもある。
 人間が思い立つということ自体が、それは自力の働きではなく、なにかそういう他力の風が吹いてきて、そこで 「 よし、やろう 」 と決める。
 じつはその時は、他力の風に誘われて決断したのではなかろうか、と思うのです。



● 私(増澤)思いますに

アニミズム的感性でいう 「 祈り 」 「 信じること 」 その先の 「 愛 」
・・・ そして、 我々は生かされている。だから、生きているだけでいい。
  
Posted by masuzawa05 at 10:23Comments(0)

2011年10月17日

まぼろしの・薩摩切子展


● ガラスに秘められた 『 藍 』 と 『 紅 』 透けた肌のまさに色っぽい妙齢の美女を想う硝子器の数々、見惚れて廻る建築家・隈研吾さんの空間・・・サントリー美術館。

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◎ 江戸時代後期、日本にも虹色に輝くガラスが登場しました。江戸切子や薩摩切子と呼ばれるカットガラスです。かつて、西洋からもたらされた無色透明のカットガラスは、その洗練された美しさから 「 ギヤマン 」 と呼ばれました。「 ギヤマン 」 は、ポルトガル語の 「 ディヤマンテ 」 を語源とし、「 ダイヤモンド 」 意味します。

 日本で生まれたカットガラスの中でも、とりわけ鹿児島・薩摩藩が力を尽くして生み出した薩摩切子は、多様な色彩と豊富な文様とのハーモニーが最大の魅力です。

 弘化3年(1846)、薩摩藩主・27代島津斉興(なりおき)が始めた薩摩のガラス産業は、息子・斉彬(なりあきら)の代に飛躍的な成長を遂げました。幼い頃からヨーロッパの書物に親しみ、一流の蘭学者と交流のあった斉彬は外国文化も積極的に取り入れました。イギリスの力強い直線やボヘミアの優美な曲線など、その造形にはヨーロッパの影響が多々見られます。また、海外輸出も視野に入れた藩の特産品として開発されたこともあって、現存する器は、将軍家や大名家などに伝来するものも少なくありません。しかし文久3年(1863)、薩英戦争によってガラス工場が破壊されると、その製造は衰退の一途をたどります。

 幕末の十数年の間に一気に交流し、明治初期には製作されなくなり、はかない運命を遂げた薩摩切子。西洋への憧れと日本的な美意識とが融合した、独自な美の世界があります。

 ○ 藍色船形鉢

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 ○ 紅色被碗

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 ○ 藍色酒瓶

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 ○ 紅色被皿

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 ○ 藍色脚付杯

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 ○ 黄色碗

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 ○ 紫色ちろり

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 ○ 紅色皿

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 ○ 藍色被鉢

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 ○ 紅色菊花文三段重

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● 飲みたい杯いろいろで目移りがする。
焼酎、冷酒、ウイスキー、ワイン、強いウォッカ・・・ それぞれに旨いだろう。

畑の瑞々しい採りたて野菜を盛り込みたい器も数々ある。 寒を経た無農薬有機大根スライスとカラスミを土ものの器にざっくりとあしらい、それをつまみに切子の小碗で芋焼酎のオンザロックをやる。・・・やがて酔うほどに心地良いまどろみの世界へ。
  
Posted by masuzawa05 at 08:35Comments(0)

2011年10月11日

心に残る建築家の言葉・その30


 『 建築家とは伝統を現代の事象と照らし合わせ、ひとつの形にまとめあげていく創造者である 』。

193心に残る磯崎新








◎ 建築とは目の前の物体だけを指すのではない。それが出来上がるまでの歴史や土地の文化をまるごと含んでいる存在だ。アーキテクチャーとビルディングの違いはそこにある。


 ● 意外とその辺のところを理解せず、私(増澤)のように万遍だらりと設計に携わっている者の多いい事か。


 私の履歴書で磯崎新 ( いそざき・あらた ) さんはこう述べています。

◎ 自分探し;

 建築家とは何者か。この問いを初めて突きつけられたのはパスポートを申請した時のことだった。
 医師や弁護士と同じ 「 職業 」 の一つだと思っていたので、私は肩書きの欄に 「 アーキテクト 」 とか 「 アーバンデザイナー 」 と書き入れるつもりでいた。ところが交付手続きを頼んだ代理人は 「 そんなのは職業名にはならない 」 と言う。
1960年代はじめのことだ。結局、書類には 「 自営業 」と記されることになり、やがて会社を設立すると 「 会社役員 」に変わった。

 『 建築家 』 を自称してようやくパスポートを手に入れたのは85年のころのことだった。私が尊敬してやまない、二十世紀を代表する建築家 ル・コルビュジエは 『 文化創造者 』 をしばしば自称し、パスポートにもそう記していたと聞いたことがある。

 数学と絵が得意だと言う理由で専攻を決めたのはよいが、私は建築をどうとらえればよいのか見当がつかなかった。故郷の大分で終戦を迎えたのは中学二年。周りには丸焼けの、焦土が広がっていて、建物とは壊れて消えてゆくものだと考える方が体になじんだ。
 エンジニアリングは嫌いではなかったから、もう少し早く生まれていたら間違いなく戦闘機や軍艦の設計者になっていただろう。しかし建築とは飛行機とか船のように構造や強度、性能によって組み立てられるモノと変わらないのか・・・・。
 アーキテクチャーを訳した 「 建築 」 とは西洋から輸入された概念である。日本で土木工事を意味していた 「 造家 」 「 造屋 」 という呼称がこれに代わったのは十九世紀末のことだ。私が大学で学んだ50年代、建築学といえばまだ耐震工学が主流で芸術や文化などとはほど遠いものだった。 「 造家 」 の意識は五十年程度ではびくともしない。

 そんなころ、ル・コルビュジエの著作 『 New World of Space 』
に出会った。建築書ではない。画家であり、優れた思想家でもある彼が芸術や歴史についての豊かな知識をもとに 「 空間 」 の可能性を自由に説いていた。

 こんな具合に自分なりの考えをまとめられるようになるまで、私は半世紀以上にわたり目指すべき建築家像を探し続けてきたように思う。 ( 新聞より一部抜粋 )



 ● 私(増澤)、大学は空手道部を卒業し、あまり勉強もせぬまま今日まで。建築家と名乗るのはおこがましく、密かに商売として設計をしている関係上 「 建築屋 」 を標榜していました。若い時年長のオーナーから 「 おい設計士! 」 と呼ばれて以来、建築屋と設計士との間を行ったり来たり。勿論パスポートとか履歴書、職業欄には 『 建築士 』 とか 『 建築設計士 』 と書いている。
60歳を越えてしまっている現在、納得のいく建築ができたら、一度くらい ‘ 建築家 ’ を名乗ってみたいものだと思っている。
                                       
                                           
近年のバブル景気だった頃、イギリス人 ( その他の外国人用にも ) のオーナーに会うために英語の名刺を作りました。

Chief Executive Officer
Shinichiro Masuzawa
First class authorized Architect

成果はどうか・・・って!? 私共で設計したステーキハウス浜田でランチを共にし、習いたての英語で接遇したのですが、どうもごはんに醤油をかけるのが好きな若いお兄さんで・・・・・、その後バブルが弾け、泡と消えました。 
半信半疑ながらも、少し期待していたので残念でした。
  
Posted by masuzawa05 at 14:18Comments(0)

2011年10月03日

ちょっといい話・その9

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● 2010年、平城遷都1300年の記念イベントの一環として、JTB関係のコンサル部門の依頼で、奈良の旅館さん中心に 「 今どきの旅館について 」 と題して、2時間ほど宿づくりについて話したことがある。その為の奈良についての事前勉強で松岡正剛・編集構成、日本と東アジアの未来を考える委員会・監修の ならじあ ( NARASIA ) を購入し、ささやかな勉強をした。

 たまたま近頃、中国で旅館の設計を始め、台湾での仕事の話もある中、アジアと日本のつながりや、文化の成り立ちを勉強・再認識するべく読みなおしている。意欲が空回りしないよう知識吸収のため、吾が不勉強を恥じつつも、老いに向け 『 知的に恥をかく 』 ことは必要と割り切って臨んでいる。
 
求める 「 アジアンな和宿 」 のヒントを探してみた。


◎ 東アジア地中海:

東アジアといえば、広大なユーラシア大陸の東端地域というイメージがあり、 「 極東 」という名称に至っては、世界の果てのような地を連想させる。
だが実態は東アジア地中海という豊かな海を巡る文化圏で、ヨーロッパ地中海と根底的に比較検討しなければならない対象なのだ。
東アジアの長い歴史の間、この海は文物の伝播海道であり、時には政治対立の深い海溝でもあった。 ― 千田稔。

● 東アジア地中海という発想は私には無かった。言われてみれば海を介しての文化の伝播が歴然としてあったのだ。


◎ 複数思想:

複数の思想的要素の混在と多様な冥衆(みょうしゅ:人の目に見えない諸天・諸神)の共存は東アジアや東南アジアにも広く見られる現象です。

私たちが日本をフィールドとして行う思想研究は、アジア各地域の精神世界の探求に広汎に応用できる可能性があります。
アジア以外の地域についても、カトリックやイスラムといった一神教の教義を中心としてなされてきた、欧米の伝統的な哲学や思想研究の理論的枠組みを見直す視点を提示するものとなるでしょう。 ― 佐藤弘夫。

● 多様な冥衆(みょうしゅ)とはよく言ったもので、素晴らしい。混沌とするこれからの世界、一神教でない我々の‘ 融通無碍さが ’ が世界のまとまりの接着剤となるでしょう。


◎ 亜魂和才:

かつての日本は、古来、中国からいろいろなことを学びましたけれども、不自然な宦官の制度や纏足は絶対に対馬海峡の内側には入れなかった。文化の受容の点で、しっかり自分の物差しを持っていた。
「 和魂洋才 」 という言葉がありますけれども、これからは 「 亜魂和才 」 が大切になってくるように思います。 ― 平山郁夫

● 物差し違いかもしれないが、大量より心のこもった少量を大事にしたい。
外来のものに対しての日本人のオリジナルな物差しを持たなければいけない。スーパーやファーストフード、コンビニ、その他便利なもの達、安易に受け入れて南から北まで日本中の町なみが皆同じ顔をしている不気味さ、それによって消えていった個人商店や、隣人同士のコミュニケーションの輪の喪失、残念なことだ。
私は子供の頃から伊東市の宇佐美に住んでいる。そして昔から同じ場所でずっと商売している魚屋さんに、最近ではあるが地物の鰯を頼んでいる。入荷するとTELがあり、刺身や・ねぎぬた・おする身にして頂いている。 うまい! おまけに安いのだ。( たまにもらう鰯の味醂干しも旨い )


◎ 寛容と統合:

元来、日本の文化の伝統的な基調は 「 寛容さ 」 であったはずです。この 「 寛容さ 」 をもって、多元的な要素を基礎とした多様な価値観の共存する社会を積極的に認めていくことが必要です。
そうすれば開かれた社会の統合性 ( integrity ) の中に自在に花開く多様性と確信が創造されるでしょう。そこから二十一世紀日本の新しい社会が始まります。― 小林陽太郎

● 広い心で受け入れていく・・・なかなかできない、でもやらねば。


◎ 部品の合わせ:

日本特有な 「 ものへの思い入れ 」 が、技術上まったく価値のないものかといえばそうでもない。
ひとつひとつの部品(部材)の性質をじっくり見極め、それを適所にあしらうことによって一千年以上も風雪に耐え、微動だにしない木造建築物を作り上げる 「 合わせ 」の建築手法は、この 「 ひとつひとつの部材への思い入れ 」 なくしてはなりたたないわけである。 ― 石井威望

● 私の目指す心を入れて形に表す ( The mind expressed in shape )ということでしょう。もの作りの原点かもしれない。


◎ 「 もの 」 と 「 あいまい 」:

古代人は混沌としたものに畏怖を抱き、大切にしてきた。
「 もの 」 というやまとことばがある。ものと言う認識の中には混沌を許容し、「 あいまい 」 を排除しない崇高な感情が抱かれていたのである。
それこそが本質的な認識の仕方ではないのか。
それを日本人の心として、ヨーロッパに 「 もの 」 を届けたいと思う。― 中西進

● あきらめではない ‘ 仕方なさ ’ から生まれる解決策もある。


◎ 儒教と侘び:

現代の日本人は、儒教の考え方が染み込んだ中国文化の核心と、中国人の思考回路を理解できないでいる。
又現代の中国人は、西洋的教養体系に育まれている日本人でありながら、同時に 「 侘び 」 「 寂び 」 の境地にたどりついた日本文化の独自性に気づいていない。
互いに異文化と認め合い、その上で相互理解を進める基本が欠落しているように思われる。― 王敏

● 双方の理解不足なのか? 春の訪れ( ここまではやっていいという国の方針 )を喜ぶあまり、礼を失して強欲さに走っているのはどちらだ!


◎ 漂泊とリセット:

日本人はもともとリセット民族だ。もう少し和風の言葉でいえば 「 水に流す 」 文化、あるいは 「 禊(みそぎ)文化 」 を持った民族だ。
「 生まれ直したつもりでやってみる 」 とか、 「 禊が終わった 」 とか、過去をリセットする言葉は今でもたくさん残っている。
そしてそれには 「 漂泊 」 が深く関わっている。 ― 安田登

● 砂漠の民には流す水が無い。目には目を歯には歯を! 厳しい戒律の中ガチガチとぶつかり傷つく。けれども戒律を守っているがゆえに死しても、心は救われるのだろう。死んでからでは何もならないと思うのだが。


◎ 異と知と工夫:

「 異 」 なるものと出会う。知がそれに及ぼうとする。みずからの既知の方法の内部に、衝撃的な未知なるものを掴み抱こうとする。そのとき、どの文化にも属さない、なにものをもアイデンティティー(類似していること)としない、もう一つの発想法が生まれる。
日本人はそれを 「 創造 」 などというだいそれた言い方はせず、「 工夫 」 と呼んできた。小説も工夫であり、鉄砲も工夫であり、時計も農業開発も博物学も工夫であり、政治や経済や思想もまた工夫であった。
それらは、未知なるアジアを既知なるものに転換しようとする大きなエネルギーによって作られて行った。 ― 田中優子

● 畳敷きの旅館の客室に座り寝転び憩う。
布団を敷き眠る。
ベッドの要望には床を上げた和ベッドで答え、時に低床のベッドを置き、屏風で仕切りつつも、和の風情に憩う。
畳敷きの宴会場にて椅子テーブルで食事する。融通無碍な設えを室礼と呼び時代の要請に答える。
私(増澤)はそれをささやかではあるが “ 工夫 ” と呼ぶ。機能を限定しない和室は素足ゆえに工夫次第で生き延びることができる。
工夫の先にあるものを求めて漂泊とリセットを繰り返しながら時代の荒波を乗り越えていく知恵。


◎ 感ずる宗教:

私は長いあいだ、一神教が 「 信ずる宗教 」 だとすると、多神教は 「 感ずる宗教 」 ではないかと思ってきた。だから日本人の信仰のあり方も、この 「 感ずる宗教 」 によって育まれ、きたえられてきたのだろうと考えてきた。 ― 山折哲雄

● 「 感ずる宗教 」 とはよく言ったもので、感心する・・・!?


◎ 普遍と矛盾:

さまざまな比較文化論が、日本社会と西洋との相違を強調してきた。その差異は、思い切って単純化してしまえば、キリスト教的な伝統の有無に求められてきた。
だが、他方で、日本は、西洋風の近代化に最も早い段階で成功した、非西洋社会でもある。
こうした 「 矛盾 」 が生ずるのは、 「 普遍宗教 」 が広く根付いたことが一度もなかったという意味で、日本社会は 「 無神論的 」 だったからではないか。 
― 大澤真幸

● 無神論者であるけれども、あらゆるもの・ことに感謝の気持ちを表し、神なるものの存在を感じます。


◎ 空観へ:

コペルニクスやガリレイが 「 地動説 」 を唱えたときも、またダーウィンが 「 進化論 」 を主張したときも、欧州では宗教界のみならず一般市民も巻き込んで大騒ぎになりました。それらがキリスト教の世界観と完全に矛盾するからでした。
しかし、アジアでこのような騒ぎがあったとは聞いたことがありません。それは多くの人々が 「 空 」 観の思想を持っていたからです。 ― 籔内佐斗司

● 仏教ではもろもろの事物は縁起によって成り立っており、永遠不変の固定的実体はないということ。色即是空の大乗仏教の真理。 要するに絶対は無いということでしょう。あいまいさがいいんです。



● 中国は近くて遠い国だったが、行ってみれば近い国。しかし・・・、

漢字と箸の文化は共通だが、中国はベッドとスープの国、わが国は畳と味噌汁の国、ヨーロッパとは中近東を介し地続きで、日本とは海を隔てた地勢のせいか、中国はよりヨーロッパ的で、似て非なるものもあまた有る。

世界人口70億人、アジアは世界の半分の人が住まう世界の中心。お互いを思いやって共存共栄したいものだが、地続きで他民族からの侵略・征服を繰り返えされてきた人々はしたたかで手強い。
のんきな父さんの鳩山さんが言うような ‘ 友愛の海 ’ にするのにはこちらも腹を据え、技術・経済のサポートの下、外交・防衛 努力を重ねざるを得ないのが現実であり、それが国民を守るために国家が先ずしなければならない重要課題だ。

口先だけの理想論では真の理解は得られない。
  
Posted by masuzawa05 at 09:20Comments(0)
心を形に表す
建築空間にはいろいろの「想い」がある。
具体的な平面から容積のある空間へと立ち上げるさまざまな作業の中で、オーナーの使い勝手や心情が、私の心を通して色づいていく。
思い入れ豊かに熟成された建築空間には、オリジナルでしなやかな空気が息づき始める。
豊潤で美しく、時に凛々しい。
機能的であることは大切なことですが、美的な創意工夫も大切な要素です。
そう思いながら設計しています。


増澤信一郎
S22年10月11日生まれ
芝浦工業大学建築工学科卒業
静岡県伊東市宇佐美在住
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