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増澤信一郎の心模様 石井建築事務所ブログ

2011年09月26日

色彩の詩人・マティス展


 青い縞模様のシャツを纏った愛娘の絵を新聞紙上で見て、マティス展を知った。
爽やかさゆえにその絵に会いたくて、はやる心でブリヂストン美術館に出掛けた

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 1869年、フランス北部の高級織物の産地 ル・カトー=カンブレジにマティスは生まれた。ボアンで穀物商を営む父はマティスにパリで法律の勉強をさせ、故郷からほど近いサン=カンタンの法律事務所職を得るとともにデッサンを習い始める。そして、20歳の時虫垂炎をこじらせ病に伏していた際、グービルの 『 絵画論 』 を読み、母親からおくられた絵の具を使って絵を描き始める。そして、翌年には画家になる決心をし、再びパリに出る。
 20世紀初頭のフォーヴィスム ( 野獣派 ) 中心人物であった彼は、絵画における既成概念に挑戦し続けました。その革新的でありながら情感と知性のバランスがとれた新手法は、フランスのみならず諸外国の画家たちへも広まり、マティスは20世紀前衛芸術の先導者となりました。

◎ 「 私は一枚の絵をみるとき、何が描かれているかは忘れてしまう。大切なのは線と形と色だけである。 」 ― アンリ・マティス 

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○ 赤い胴着の女

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○ JAZZ < イカロス >

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◎ 目指したのはこの絵 縞ジャケット

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 ● お目当ての絵に会えてよかった。
                      
けだるい夏の一日、都心の高級ホテルにアーリーチェックイン、シャワーを浴びさっぱりとして、こんな青い縞のシャツを纏い、夕暮れの銀座あたりをお洒落に颯爽と歩き、レストランで良く冷えたビールを、磨きこまれた冷たい細身の薄口グラスで先ずは一杯・・・。      ライトディナーの始まりです。 この絵にはそう思わせる清涼さがある。


◎ 色彩とリズムの即興 ― 私は色でデッサンする:

『 南極と北極 』 かつてピカソは、20世紀の絵画史上最も名高く、最も大きな役割を果たした二人の画家をこのように形容したという。実際、マティスとピカソはよきライバルだった。半世紀以上にわたる二人の交わりは、馴れ合いに陥らない分別ある友情のうえに築かれていた。色彩の詩人マティスはフォルムの破壊者ピカソのなかに自分と正反対の資質を見出していた。 「 私は色彩を通して感じる 」 とマティスは言う。 「 だから、私の絵はいつも色彩によって統一が与えられるのだ。だがそのためには、感覚を凝縮し、用いる手段を最大限に表現する必要がある。 」 と述べています。

画家にとって、一本のバラを描くことほど難しいものはない。            
なぜならば、そうするために、
今までにあらゆるバラが描かれていることを、
まず忘れなければならないからである。



◎ 切り絵:
 1943年ごろ、陽光溢れる南フランスのシミエ、そして後にプロヴァンスにあって、
マティスは絵で語るべきものはすべて語ったと感じていた。しかも、病気のために絵の具
を扱うのが難しくなっていた。紙をあらかじめグワッシュで彩色し、好きな形に切るとい
う方法を用い始めたのは、その時である。

 『 色彩とリズムの即興 』
 『 生きた色を切り取る事は、彫刻家の直彫りを思い出させる、私の曲線は狂っていな
  い 』

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○ 白のトルソと青のトルソ

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○ 青のヌード

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○ 切り絵いろいろ

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●  私(増澤)思いますに、ペインティングできなければ切り絵で! 芸術家のものすご
い執念を感じます。

今、ニューヨークのMoMA( museum of modern art )の階段室に飾ってあったダンシングサークルを思い出しています。
そう言えば、輪になって色が踊っていました。


 喫茶でティーしました( アールグレイのアイスティー付のショコラミルフィーユ )。
甘いもの好きの私です。 セットで¥900でした

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Posted by masuzawa05 at 09:30Comments(0)

2011年09月21日

大震災にまつわるいろいろ (8・15からの眼差し)震災6ヶ月

◎ 国破れて山河あり
  山河破れて国あり

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66年前の敗戦の時は、国は敗れたが、日本の里はあった。段々畑も森もあり、川も残っていた。いま私たちに突きつけられているのは、 『 山河破れて国あり 』 と言う現実ではないか。歌にもうたわれたお茶の葉からも放射能が検出されるようになった。なにより悲劇的な問題は、汚染が目に見えないことだ。依然として山は緑で海は青い。見た目は美しくて平和でも、内部で恐ろしい事態が進行している。平和に草をはんでいる牛さえも内部汚染が進んでいるかもしれない。かつてこんな時代はなかった。
『 山河破れて国なし 』 と言う人もいるかもしれない。ただ、原発の再開も、復興の予算も今も国が決定する。今も国はあるんです。ただ、今ほど公に対する不信、国を愛することに対する危惧の念が深まっている時代はない。戦後日本人は、昭和天皇の玉音放送のように、堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、焼け跡の中から復興をめざし国民一丸となってやってきた。今、大変な大きな亀裂が、ぽっかり口を開けている。

私たちは、原発推進、反対を問わず、これから放射能と共存して生きていかざるを得ない。たとえ全部の原発を停止しても使用済み核燃料を他国に押しつけるわけにはいかない。放射能を帯びた夏の海で子供と泳ぎ、放射能がしみた草原に家族でキャンプする。その人体への影響の度合いは、専門家によってあまりにも意見の開きがある。正直判断がつきません。
だから、政府の情報や数値や統計ではなく、自分の動物的な感覚を信じるしかない。未来への希望が語れないとすれば、きょう一日、きょう一日と生きていくしかないという実感です。第一の敗戦のときはまだ明日が見えた。今は明日が見えない。だから今この瞬間を大切に生きる。国は私たちを最後まで守ってくれはしない。
( 五木寛之 作家 78歳)


◎ 負担、覚悟すべき時 ( モデル不在、生き方再考 )

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 終戦のときは、我々は根こそぎ裸になり、何の資産もなくなった。皆が同じような境遇にあり、貧乏を辛抱するのは当たり前と思っていた。国民全体が危機感を共有していた。
 現状はどうだろう、日本の累積債務残高は、国と地方を合わせ国内総生産(GDP)の2倍に達している。今年度の当初予算でも、税収より国債発行額が多い。国家としては完全に破産状態だ。莫大な国債の利払いだけでも大変なのに、震災による多額の復旧・復興予算を加えると、膨大な負担をしていかなければならない。国民誰もが覚悟すべきときです。
 
今のアメリカ経済は日本以上にひどい。なぜ日本がこんな状態なのに、円高が続くのか。ユーロ圏は大きな不安要因をかかえ、一党独裁体制の中国も、様々なひずみが表面化している。日本には、もうモデルがありません。
 
今度の震災で、日本の自動車産業を支えているのは、地方の部品メーカーだったことがわかった。優秀な中小企業の、小さくても最高のものづくりをする技術力が、財産だ。GDPが右肩上がりの時代ではない。成長より成熟が必要な時です。日本製品は信頼性が高い、そして、日本人の言うことは信用が出来る、と他国から評価されることがなにより大切だろう。

 見習うべきモデルはもうない。どこへ行こうか、どうしようか、考えることではないですか。
 『 われわれはどこから来て、どこへ行くのか 』 と来し方行く末を思い、それぞれが生き方を見つめ直すしかない。  ( 中村 稔 詩人で弁護士 84歳 )


◎ 科学に後戻りはない

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 今度の震災の後は、何か暗くて、このまま沈没してなくなってしまうんではないか、という気がした。元気もないし、もう、やりようがないよ、という人が黙々と歩いている感じです。東北の沿岸での被害や原子力発電所の事故の影響も合わせれば、打撃から回復するのは、容易ではない。
 労働力、技術力をうまく組織化することが鍵を握る。規模の拡大だけを追及せず、小さな形で緻密に組織化された産業の復興をめざすべきだ。疲れずに能率よく働くシステムをどうつくっていくか、がとわれるだろう。それには技術力のある中小企業を大企業がしっかり取り囲む必要がある。外注して使い捨てるのではなく、組織内で生かす知恵が問われている。この震災を、発想転換のまたとない機会ととらえれば、希望はある。

 原発をやめるという選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はありえない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。
 だから危険な場所まで科学を発展させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防御装置を作る以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です。
 
 全体状況が悪くても、それと自分を分けて考えることも必要だ。僕も自分なりに満足できることをする。公の問題に押しつぶされず、それぞれが関わる身近なものを、一番大切に生きることだろう。 ( 吉本 隆明 詩人で批評家 86歳 )


◎ 戦後66年は砂上の楼閣

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 三月十一日を境に、何もかも失い、寒空の下震えるしかなかった被災者たち。 
自身は昨日までの当たり前を断絶し、日常は非日常となった。日本列島に住まうものすべて自然の驚異を前に圧倒された。次々映し出される惨状は想像を超えて、我々は打ちひしがれ、人間という生き物の無力をつくづく思い知らされた。まもなく5ヶ月が経つ。
 ひたすら呆然と過ごすしかなかった被災者は、少しずつ日常を取り戻し、自分の足で立ち上がろうとしている。一方で、国への不信感、怒りは日に日に募る。いつしかいかんともし難い諦観、虚無感と結びつき被災者の心に横たわっている。これはなかなか拭えない。国の態度は踏み出しかけた被災者の足を引っ張っている。

 語弊があるかもしれないが、昭和二十年の焼け跡は、いっそあっけらかんと明るい印象だった。この度は違う。先が見えず、立ち尽くすしかない。ため息すら出なかっただろうと思う。
 焼け跡のスタートはゼロから始められた。それに高度成長が伴った。この度はゼロに戻すことから始めなければならない。経済は疲弊している。ここにいつ収まるともつかない放射能汚染が加わる。
 
 戦後六十六年を経て、かえりみれば被災地だけじゃない、都会もまた紙一重で明日は焼け跡じゃないか。文明に囲まれ、物質的豊かさの中で暮らし、飽食の時代とやらを過ごす。しかしすべて砂上の楼閣。ただ今の暮らし、電気がなければお手上げ。原子力推進派のいう電力不足は脅しの一種だが、日本はガタガタ。この電力システムはお上先導のもと進められたとはいえ、世間もまた、便利が一番と受け入れてきた。四季の移ろう列島に住みながら食べものは外国任せ。海の向こうが不作に陥れば、あるいは損得の駆け引きによって輸出取り止めとなればたちまち飢えに苛まれる。つまり他国の胸三寸で、日本は生かされも殺されもする。
 平和を唱えていれば生きていける。その平和な国で自殺者は増え、食い物は危なっかしい。空気は汚染され文化伝統は薄れるばかり。豊かさと引き換えに失ったものは大きい。このたびの震災は国難に違いない。今こそ、日本人一人一人が立ち止まり、考える時である。 ( 野坂 昭如 焼跡闇市派作家 80歳 )



● 終戦記念日を前にしての4人の識者意見を、日経の文化欄から抜粋させていただきました。まったくその通り。

しかし 「 来し方行く末を思い 」 せめて 「 今日という日を一生懸命に生きる 」。では、なんとも情けない。個人の生き方としてはその通りですが、これからの展望を聞きたかった。

◎ エネルギーは今後ますます必要とされ、エネルギー=知識と言い換えてもいい。エネルギー需要が増え続ける中で、ここ数十年の間は原子力発電と共存せざるを得ない現実がある。
落ち込む心があれば諸々が落ち込んでいく。人生もっと明るく、前向きに正しく思えば間違わずにことが進んでいく。・・・てなことを、立花隆さんが言っていました。私(増澤)も、立花流考え方に同感です。     

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● 明治維新 → 第二次世界大戦の敗戦 → 今回の大震災、一連の大きな変革の中で国を憂い、どうあるべきかを真摯に問う、日本にとっては三つ目の正念場、保守本流の台頭が望まれる。経済力によるバックアップを受け、外交に誠意をみせ、防衛力の充実を計る、このこと忘れてはいませんか。

政府民主党は市民運動家や日教組の人たちに牛耳られ、チマチマとした政策に明け暮れるのではなく、皇紀2600年の伝統を守り、広く世界に目を向けて正義のために生きる心意気を見せて欲しい。心からそう思う。
  
Posted by masuzawa05 at 10:36Comments(0)

2011年09月12日

革新とは何か


革新的アーティストと題し、アートディレクターの佐藤可士和氏は、村上隆さんのことを作品 『 達磨 』 を引き合いに出してこう述べています:

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◎ アートヒストリーを理解しないひとには、村上隆の真のすごさが伝わっていないと思う。なぜあの巨大フィギュアが高額で落札されるのか。 ( フィギュア・figure:表象、像、図案 )
 アニメや漫画などの日本のオタク文化を、村上は欧米で初めてアートの文脈の中に提示し成立させた。サブカルチャーをアートとして成立させたのはウォーホール以降初めてだろう。村上はルイ・ヴィトンとのコラボレーションも手掛けた。普通の作家はなかなかこんな巨大商業ブランドとは手を組まない。強すぎるブランドに個性が埋没することを嫌うからだ。
 こうした仕事を村上は短期間のうちに鮮やかにこなし、期待以上の成果を上げた。その影響の大きさは計り知れず、日本文化の価値も大いに高めた。世界のアート市場で高く評価されるのは、活動に対する欧米人のリスペクトの結果なのだ。 ( リスペクト・respect:人としての価値を認めること、 ふり返させること )

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 『 達磨 』 は、実は僕の事務所の床の間を気に入ってくれた村上氏がそこで仕上げた平面作品。大陸から渡来しハイブリッドされて完成した達磨の姿。それを日本の新しいモチーフとして再発見するセンス。大型作品なのに、目の中の一ミリほどの円もゆるがせにしない集中力。世界的作家のマネのできないクオリティーの秘密に間近で触れたひとときは、僕のアート人生でも最高に幸せな時間だった。 ( ハイブリッド・hybrid:雑種、異種のものの混生物、 クオリティー・quality:質 )



● 革新とは何か: 私(増澤)思いますに・・・。


 新しい提案をし、既成の大きな力に負けない ‘ 質 ’ と ‘ センス ’ が有ること。そんなふうに思いました。
  
Posted by masuzawa05 at 09:00Comments(0)

2011年09月05日

縄文時代の貝塚遺跡は無事だった

◎ 「 職 」 と 「 住 」 が分離:
 
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東日本大震災を経て後、
 松島湾は縄文時代と同じ風景を今でも見ることができる、全国でも貴重な地域だ。この湾周辺は縄文時代以降、海面が下がるのと同じペースで地盤が沈下したため、海岸線が変わっていない。
 それもあって松島湾にある里浜貝塚や大木囲貝塚など7000〜3000年前の遺跡を、私は20年以上調査してきた。
 この周辺の貝塚は海岸沿いにあるように見える。しかし実際は標高15〜30メートルの高台にあり、今回の大津波の被害を逃れた。縄文時代の集落の大半は、このような海と山の “ 接点 ” にあり、発掘しても地震を除けば大災害の被害は見当たらないのが特徴だ。
 もっとも、縄文人が防災を考慮に入れていたとは必ずしもいえない。狩猟、漁猟、木の実拾いと、より多くの場所に行きやすい場所に住んだだけだ。自然に 「 広く薄く 」 依存し、いわば職住分離だったことが災害に強い “ まちづくり ” につながったのだろう。

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 対照的なのが弥生時代以降の集落だ。発掘すると、洪水や津波など大災害の跡がしばしば見つかる。弥生時代の水田跡である仙台市の沓形遺跡が一例だ。海岸から4キロ離れているにもかかわらず、その周辺は今回の津波で大きな被害を受けた。約2000年前にも大きな津波を受けた痕跡がある。その後耕作が再開されたのは4世紀。いったん断絶した水田が復活するのに数百年を要したことになる。
 弥生時代に農耕が始まると、水田適地や交易拠点など特定の場所に多大に投資して、 「 狭く濃く 」 利用するようになる。生活の中心と仕事場も一致。生産性は上がったが、災害には弱くなった。まさに 「 一所懸命 」 だ。しかも何度も同じ災害に見舞われる傾向がある。

● 私(増澤)思いますに、海に面した河川沿いの扇状地に住まいと田畑を同居させ、効率化を図った。災害には海・河の護岸で対処し、あたかも自然災害を克服したかに見えた・・・しかし今回の大津波である。


◎ 人の力の限界を意識:
 
 縄文時代と弥生時代以降の自然観が大きく異なる。その象徴が貝塚だ。集落のすぐ隣にあり、墓地として遺体も埋葬された。教科書では 「 当時のゴミ捨て場 」 と教えているが、私の見方は違う。臭いもひどかったはずなのに、何世代も同じ場所を使い続けたのは、貝塚が 「 生活の中で役割を終えたモノの行き先 」 だったからではないか。
 縄文人の世界は、人間の力の及ぶ範囲 ( この世 ) と及ばない範囲 ( あの世=自然 ) で構成されていた。遺体もゴミも等しく 「 あの世へ旅立つモノ 」 だった。貝塚に投棄する際は 「 送り出す 」 儀式を行ったのだろう。
 狩猟や出産の際は、逆に 「 迎い入れる 」 儀式を行った。調理も儀式の一つ。縄文土器の実用性を無視した装飾は、あの世から来た食材がこの世に迎え入れられるため、姿を変えつつある過程を表現していると思われる。

 「 迎え入れる 」 「 送り出す 」 価値観は、自然に依存する狩猟採集民ならではの思想だ。食料を自ら栽培するようになった弥生時代以降は 「 自分たちで全て処理できる 」 と思い込むようになった。


◎ 地に足つけた景観へ:

 被災地の方々が元の場所に住みたいと願うのは当然だが、悲劇を繰り返さないように今後の地域デザインを考える必要がある。復興策に、縄文人の 「 広く薄く 」 取り込むべきだ。
 今回の震災のような1000年に1度の事象を考えるのは、長いスパンで物事を見る考古学者や歴史学者の役割だ。人々が悲しみを乗り越え、地に足をつけた景観をどう造っていくのか見つめ続けることが、大事な仕事だと考えている。
( 総合地球環境学研究所准教授 内山純蔵。 日経、文化より抜粋 )


 ● 私(増澤)思いますに、効率化を求めるあまり、自然への畏敬の念を忘れてしまった現代人。天災にめげず生き抜いていくためにも、  いなす → 同化 → 共存 の仕方を学ぶべきであろう。自然の力を軽んじ、自分たちの力で切り開いてきたとの思い込み驕りが、時に数百年のスパンで訪れる災害に打ちのめされる。

 新築を含め建築物は地面の上に載って建っています。後々の建物や造成地面・樹木にカムフラージュされて元々の地勢というか地成りが隠されていることが多く、埋め立て等はその顕著な例であり、時には鳥の目になり風や水の流れや、日向きまでも頭に入れて建築を含めたランドスケープデザインを考えなければいけない。

自然をコントロールしたような錯覚、自然の上を行くような思い上がりを糺し、人間も自然の一部としての生き物であるという認識に立てば、譲り合い調和を求めることこそが、 “ 水と緑の惑星 ” に住み続けることの出来る唯一の手立てであることがわかる。
『 地球・・・唯一・無二 』 なるもの。

 自然を家畜化した里山の思想を大切にして、広く薄く協力して住まう。自然を謳歌して、自然と同化して生活する。そんな海・山・川・里山と田畑・住まい、その有機的つながりの中にこそ、これからの日本の観光の有るべき姿が垣間見える。そこを訪れる世界の観光客はそんな景観にいやされ感動する。

 観光地松島は小さな島々が湾内に点在し、それが緩衝材になり津波の大きな被害から免れた。地元の旅館のオーナーは風光明媚な自然が与えてくれた観光資源が、我々を救ってくれた。だからこの自然を大切にしたい、と涙心に語ってくれた。
そして伊達政宗はこの松島の瑞巌寺を、挙兵のための出陣式の場所に選んだという、過去の史実の洞察を含め、歴史認識を伴った周到さが窺える。たいしたものだ。

 そんな折、丁度先日、西の方の旅館のオーナーからFAXが入った。海の近くの一箇所に数軒の旅館を持っている旅館のリスク回避の為に、関東圏の山の温泉地に系列の宿を作りたいという主旨。ちょっと性急な感じがしないではないが、早速意を汲んで動き出さねばと思っている。・・・こういう話は初めてだ。
  
Posted by masuzawa05 at 09:49Comments(0)
心を形に表す
建築空間にはいろいろの「想い」がある。
具体的な平面から容積のある空間へと立ち上げるさまざまな作業の中で、オーナーの使い勝手や心情が、私の心を通して色づいていく。
思い入れ豊かに熟成された建築空間には、オリジナルでしなやかな空気が息づき始める。
豊潤で美しく、時に凛々しい。
機能的であることは大切なことですが、美的な創意工夫も大切な要素です。
そう思いながら設計しています。


増澤信一郎
S22年10月11日生まれ
芝浦工業大学建築工学科卒業
静岡県伊東市宇佐美在住
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