2011年07月25日
旅の効用
「 旅暮らし 」 という立松さんの追悼エッセー集、綾なす珠玉の 「 言の葉 」
◎ 旅のよいところの一つは、いつも暮らしている視点、つまり日常生活の側からではなく、自分が本来持っている感性から対象を見ることができる点だ。自分の目の高さは身長の分であり、そこからものを見る感覚が知らず知らずに身についている。だが地面に寝そべれば蟻の視点になり、木に登れば鳥の視点になる。水中を泳げば魚になり、カヌーでいけば水鳥になる。そのように視線の位置をどんどん変えていくことが、旅に出るということだ。
● 彼と私は、同い年。ウチで設計した伊豆のいなとり荘の客室に飾られた色紙に、部屋から眺めた水平線に浮かぶ島々を見晴るかす、流麗な宿泊賛歌が綴られていて、好感をもって読んだ。
こういう情感を形に表せればいいな、と常々思っていた。
2010年亡くなられましたが、旅先での溢れる出る感性を 「 言の葉 」 に託し、クリクリした眼差しと、訛りのある独特な口調で語る姿が偲ばれます。
○ 彼の「 知床の春 」 という一文が好きだ。
知床の春は、流氷が去っていくことからはじまる。流氷を山からの出し風があらかた沖に運び去ってしまうのだが、海面には忘れられたようにまだ少し残っている。そんな時、すぐそばまで流氷の見物に行く。流氷は奥底に深い青い色をたたえている。氷河の透明な青、グレーシャー・ブルーである。
私はカヌーを漕ぎ出し、流氷を見送りに行ったのである。間もなく流氷は風に吹かれ、海面に一片も残らないであろう。
こんな時、陸地では水の澄み渡った音がいたるところでする。氷や雪が解け、一滴一滴と地面にしたたり、走り出して川となったのである。知床の春の代表は、この水音であると私は思う。水音が聞こえないという場所というのは、ほとんどない。私自身もこの水に洗われているような気分になるのである。
森の土は黒く湿り匂いやかな香りに包まれる。春の森では、生きとし生けるものが目覚め、生き急ぐような気配に満ちて、静かなのだがどこかしら騒然とした雰囲気になるのだ。ミズナラやカツラの幹に耳を押し当てると、水を吸い上げる音が聞こえる気がするが、枝が風に揺れる音かもしれない。
春を迎えて騒然としているのは私の心だ。
● 私(増澤)思いますに、 『 気づき 』 は珠玉のことばを紡ぐ感性の初動であり、 気配・気づき を感じさせてくれる日本の四季の営みに感謝したい。
◎ 旅のよいところの一つは、いつも暮らしている視点、つまり日常生活の側からではなく、自分が本来持っている感性から対象を見ることができる点だ。自分の目の高さは身長の分であり、そこからものを見る感覚が知らず知らずに身についている。だが地面に寝そべれば蟻の視点になり、木に登れば鳥の視点になる。水中を泳げば魚になり、カヌーでいけば水鳥になる。そのように視線の位置をどんどん変えていくことが、旅に出るということだ。
● 彼と私は、同い年。ウチで設計した伊豆のいなとり荘の客室に飾られた色紙に、部屋から眺めた水平線に浮かぶ島々を見晴るかす、流麗な宿泊賛歌が綴られていて、好感をもって読んだ。
こういう情感を形に表せればいいな、と常々思っていた。
2010年亡くなられましたが、旅先での溢れる出る感性を 「 言の葉 」 に託し、クリクリした眼差しと、訛りのある独特な口調で語る姿が偲ばれます。
○ 彼の「 知床の春 」 という一文が好きだ。
知床の春は、流氷が去っていくことからはじまる。流氷を山からの出し風があらかた沖に運び去ってしまうのだが、海面には忘れられたようにまだ少し残っている。そんな時、すぐそばまで流氷の見物に行く。流氷は奥底に深い青い色をたたえている。氷河の透明な青、グレーシャー・ブルーである。
私はカヌーを漕ぎ出し、流氷を見送りに行ったのである。間もなく流氷は風に吹かれ、海面に一片も残らないであろう。
こんな時、陸地では水の澄み渡った音がいたるところでする。氷や雪が解け、一滴一滴と地面にしたたり、走り出して川となったのである。知床の春の代表は、この水音であると私は思う。水音が聞こえないという場所というのは、ほとんどない。私自身もこの水に洗われているような気分になるのである。
森の土は黒く湿り匂いやかな香りに包まれる。春の森では、生きとし生けるものが目覚め、生き急ぐような気配に満ちて、静かなのだがどこかしら騒然とした雰囲気になるのだ。ミズナラやカツラの幹に耳を押し当てると、水を吸い上げる音が聞こえる気がするが、枝が風に揺れる音かもしれない。
春を迎えて騒然としているのは私の心だ。
● 私(増澤)思いますに、 『 気づき 』 は珠玉のことばを紡ぐ感性の初動であり、 気配・気づき を感じさせてくれる日本の四季の営みに感謝したい。
Posted by masuzawa05 at
09:01
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