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増澤信一郎の心模様 石井建築事務所ブログ

2009年09月29日

だまし絵

 エッシャーの作品は知ってはいるのだが、私(増澤)にも出来るかなと思って描いてみた。当然と言えば当然なのだが・・・やっぱし出来た。

167エッシャーの滝







◎ この 「 滝 」 と題されたリトグラフは、 「 奇妙な建物 」 という点を除けば、一見何の不思議もない絵だが、よく見ると、落下して水車を廻した水がそのまま 「 流れ下って 」 元の高さに戻っている。改めて 「 えっ? 」 と気づく不合理性。実際の土木技術では実現不可能でも、絵では簡単に実現できる。絵画のそのような面白さ、可能性の一面をエッシャーは教えてくれたのである。


 優れた土木技師を父に持つ版画家エッシャーは、そのDNAを受け継いでいるのか、ありきたりの絵よりもむしろ、位相幾何学的な図面とか図形の面白さに熱中した。

 絵は三次元の空間と物を、二次元に置き換えて描写実現したもので、その二次元世界を三次元に復元認識するのは、一種の約束事ないしは眼の錯覚によるのだが、エッシャーはその錯視・錯覚を利用して、平面世界を縦横に遊び回ったのであろう。



● 建築空間も ‘ 一種の錯覚の産物である ’ と誰かが言っていた。

 ならば、
偉大な錯覚を演出し続ける我々は、自虐的に 『 詐欺師・ペテン師・設計士 』などと自らを名乗る事もあるが、さしずめ 詐欺師・ペテン師 の上層部に居て、美しいマジック ( 心を形に表すテクニック ) で建築主を煙に巻くしたたかな仕掛け屋か!
  

Posted by masuzawa05 at 09:42Comments(0)

2009年09月24日

心に残る建築家の言葉・その25

 『 伝統は創作の出発点でありえても回帰点ではない 』
166篠原一男







 ● 私(増澤)の記憶では、個人住宅の 「 白い家 」 シリーズが有って、漆喰塗りの白い壁と、勾配天井、グレーの絨毯の床。 
白い壁の手前に木肌の削り丸太が一本、脇の毛氈敷きの床上に飾り壺ひとつ。その象徴的な居間の空間作りで、新建築の雑誌を飾ったものでした。シンプルなモダンさが新鮮で、光と影の交錯が眩しかった印象がある。 ( 先年亡くなられたのは寂しい限りです )


◎ 以下篠原さん曰く

○ 住宅は芸術である:

 住宅は建築といわれている領土から離れて独立することを、それは意味している。
国籍は絵画や彫刻、あるいは文学等々と同じく芸術という共同体に移さなければならない。


○ 住宅は美しくなければいけない:

 住宅は美しくなければいけない。空間には響きがなければいけないと私は考えている。
美しいということばはそのまま受けとって頂きたい。美学の問題をここで論じようと思わないからだ。大きな、そして古い民家の、黒々とした土間に足を一歩踏み入れたとき、そこに拡がる巨大な空間の美しさに目を見張った経験を誰ももっているはずである。現代の住宅の中にも、このような美しい空間がなければいけない。


○ 三つの原空間:

 三つの空間がある。そして、この三つの空間以外には建築の空間の原形質はない。かぞえきれないほど多様な形や表情をもっているように考えられている建築は、しかし、この三つの空間のいずれかに属するか、あるいはその化合体として存在するだけである。    
この三つの空間を

機能空間 (ファンクション・スペース)
装飾空間 (オーナメント・スペース)
象徴空間 (シンボル・スペース)

と名づけ、そして、これは建築の三つの原空間(プライマリー・スペース)となる。


○ 住宅設計の主体性:

 いかなる都市デザインからも自由である。

私たち建築家がつくる独立住宅はそれと向かい合って建つべきものであって、それに順応したり、触発されてつくられるものではない。もし、そこに強烈な都市デザインが出現するなら、ただそれだけの理由で、さまざま勝手な考えと形を持った魅力的な住宅が出現することが約束されている。


○ 空間に永遠を刻む:

 私のつくった住宅はいつまでも地上に立ちつくして欲しいと願っている。

 私の住宅が永遠に残る価値をもっていると自負しているのではない。小さな住宅は建てられてから数年もたたぬ間に、その機能に障害が起こることが多く、やがて使用に耐えなくなるときがくる。しかし、それでもなお私は住宅をつくるという行為のなかに永遠の願いを含まずにいられない。現実の現象に密着させて、機能の耐用性を前面に出して設計する方法を私は信用しない。


○ 思想の空間:

 住宅は芸術になった

 住宅建築という、つくりだされたこの小空間が人間の心の奥に強く触れるなにかをもつことができたとき、それが芸術であり、そして、そのことによって注ぎ込まれたエネルギーの代償が得られるのだと私は考える、と述べています。                          



 ところで最近の雑誌で、詩人谷川俊太郎さんの軽井沢の別荘 ( 篠原氏設計 ) についての藤森照信さんのインタビューから、
                                        
◎ 谷川さん曰く:家に住みやすさを求める気持ちはまったくなかった。家は住む人の精神の形だと思っている。住みやすさは精神の敵。・・・住宅建築が出たとき、雑誌に書評をしたが、その中で 「 家を建てる哲学者 」 と彼のことを評したら、寺山修司がとても気に入ってくれた。と述べています。
                          
● しかしながらこの別荘にはあまり住まなかったそうで、そのことが残念ですが・・・。



 私(増澤)思いますに:

商品建築 を多く手懸けるあまり
機能に逃げたり、装飾性、象徴性に逃げたり、いろいろですが、
そろそろ真っ向勝負に出て、空間の質を問うべきでしょう。

商品建築であろうとも
まれに、自然との一体感で ‘ 建築は芸術である ’ と思えるときもあります。
               
いずれにしても、ここまで言い切れる 『 熱い思い 』 篠原さん りっぱ!
  
Posted by masuzawa05 at 13:06Comments(0)

2009年09月14日

国宝・阿修羅像


 上野の東京国立博物館に阿修羅像を見に行った。


 ● 一般的には 「 阿修羅のような形相で怒る 」 そんな風に記憶していたので、この優しい顔は何なんだ。と思っていました。解説を読み納得がいった。


◎ 阿修羅は古代インドの 「 アスラ 」 という戦闘の神で、3つの顔と6本の手を持ち、表情は険しく、手に弓と矢を持つその肌は怒りで赤くなっているという鬼神です。
 でもそれはインドの神話の中の話であって、仏教が成立していくうえで阿修羅も古代インドの神々と同様に仏教に帰依し、仏教に敵対するものを退散させるという守護神になり、仏教を守るという役割を担います。外敵を威嚇するかのように怒りの形相をしている、これが守護神としての普通の阿修羅の表現です。
 ところが興福寺の阿修羅にはそういう要素が全くない。怒っているとか泣いているといった瞬間的な表情ではなく、何か憂いを含んでいるような、厳しいような表情をしています。心が揺れている自分と対峙しているような印象を受ける。

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 阿修羅の故郷、奈良興福寺。和銅3年 ( 710 ) 平城遷都にともない、藤原鎌足の子・不比等(ふひと)は春日山の麓に興福寺を創建した。今回の展覧会は創建1300年記念、中金堂再建事業の一環として計画され、2010年立柱式が行われる。
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 今回八部衆像(8体)と十大弟子像(現存6体)が揃って寺外にて展示されるのは、史上初めてのこと。阿修羅は八部衆像のうちの一体です。

 阿修羅像は天平6年 ( 734 )、光明皇后が母、橘美千代の一周忌供養の菩提を弔うために造像して以来、戦乱や大火などの災難を乗り越えてきました。

● 乾漆で出来ているために微妙な顔の表情が素晴らしい。私(増澤)聞いたところによるとこの像は小ぶりで、又中が空洞であるため、軽量で火災などの時に持ち運びし易い為残ったという説もあります。
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● 私(増澤)の感想は:

 美少女のような美少年。艶っぽく潤んだ目元と唇に憂いを秘め、今は亡き女優の夏目雅子さんを偲ばせる。早逝した美女の心残りの涙顔にも見えて・・・。 ところで、付き合いのある三島の小野建設の小野社長さんが、同じ事を業界紙の見学記の中で述べているのを読み、同世代の感性を感じました。

 荒ぶり → とまどい →憂い、 三つの顔と六本の腕に託された祈り、安らかである。


◎ 展覧会の解説書によると:

 阿修羅の心は複雑である。真剣さと、憂いと、涙とが共存している。眉の動きに注目すると心の揺れが強く感じられる。緊張した頬と目を見ると真摯な意志が印象づけられる。そのまなざしは何かを吹っ切ったような力がある。瞳に注目すると涙がどんどんとあふれてくるようだ。憂いと真剣さと涙とが強弱しながら見えてくる。このような複雑な人の心理をこれほどリアルに表した彫刻はこれまでにはなかった。その意味でも古代彫刻史に阿修羅像が現れたことは画期的である。
 また、阿修羅像が少年相であることも注目される。美少年である。少年相は心の純粋さを象徴する。子供や少年の愛らしさ、すがすがしさに聖なるものを重ねることは普遍的な認識である。日本の七〜八世紀でも伎楽の先導役として登場する師子児は、その汚れなき純粋さで道を清める露払いの役割を担っている。また、白鳳期に流行の童顔童形像もその純粋さや初々しさに浄化された仏心を重ね合わせている。( 伎楽;古代日本の寺院屋外で供養として上演された無言仮面舞踊劇 )
 しかし、興福寺阿修羅像で選ばれたのは幼児ではなく少年の姿である。それは天真爛漫な無垢さのみではない。すでに人としての矛盾や不条理を感じつつも、純粋さを失わないという年齢である。繊細で傷つきやすく純粋で誠実さがあり、また、反省する素直な気持ちを持っている。少年としての意味がそこにある。

○ 美のさすらいびと・映画評論家の おすぎさんは:

 阿修羅というと荒々しいイメージがありますが、興福寺の阿修羅像はお釈迦様の前で懺悔をして、すべての苦悩から脱却されたお姿です。超人的なのですが、とても親近感がある。目玉も描かれているし、ネックレスやブレスレットで身を飾り、サンダルもはいています。漆でできているから、人の肌に近い感じ。仏像を見ているというより、人間を見ているという気分になりますね。年月は残酷で、どんな美少年や美人でも、あっという間に年をとってしまうけれど、阿修羅像は1300年たっても変わりません。この展覧会を通じて、何度でもお会いになってくださいと述べています。 ( 阿修羅と私より )


● 私(増澤)、2年前ニューヨークのメトロポリタン美術館で見た古今東西の美術品の数々。思い入れ深く、心を形に表す美術作品は万国共通の美しさがある。今回の阿修羅との出会いで、その時のことを思い出している。
心の揺れを表情・形に表す技量は、乾漆による表現手法によるものなのか? 日本の仏像は優しさゆえに欧米人に特に人気があるという。日本人的感性、優しさゆえの行き着く先としての造形手法なのだろうか?
今度は目的を持って、メトロポリタン美術館でもう一度ゆっくり世界の美術品を鑑賞、体験したいと思い始めている。



◎ 人の心の有り様が問われるこの頃、たまたま目にした 興福寺多川俊映貫首の時宜を得た問いかけが心にしみました。

○偽装のきざしはと題してこう述べています;

 昨今、 ( 心の時代 ) や ( ふれあい ) あるいは ( 品格 ) といった言葉が多用されるが、世のさまは、それらの言葉が本来要請する状況に程遠い。
 その伝で言えば、かまびすしく < 本物 > を言い立てる世の中は、実は、偽装のうちにこそ明け暮れているのであろう。

 昨秋以来、経済の急激な冷え込みで世相は、はなはだ暗い。アメリカ発のこの金融危機はすでに実体経済を脅かしているが、サブプライムローンの破綻が原因という。
 私は経済の仕組みにかいもく暗いから、こうしたローンの説明を聞いても、よくわからない。しかし、金融工学とかいう技術を駆使して、リスクを巧みに見えないように加工した代物というではないか。なんのことはない、要するに偽装商品だったのだ。それが、世界を大きく揺るがせているのだから、世はまさに大偽装時代だという他ない。

 古来、・・・真実を語るところに畏れはない、といいながら、人はおびただしい不実を語ってきた。だからでもあろう、仏教は 『 不綺語(ふきご) 』 の大切さを指摘してきた。綺語とは、うわべを巧みに飾りたてて偽り、誠実を欠く言葉のことである。そうした言葉を用いない不綺語の日常が、美しい心を育んでいくというのだ。
 綺語は、いってみれば、言葉の偽装である。偽悪というスタイルもあるけれど、他人に自分をよくみせたいという願望が抜きがたくある。それがどんなにささやかなものであっても、綺語ならば偽装そのものと知るべきだ。
 世の偽装はともかく、私たちはとくと、自己に根ざす偽装のきざしを見つめなければいけないのではないか。古いことわざに、 「 寸にして断たざれば尺の憾み(うらみ)あり、尺にして断たざれば丈の憾みあり 」 というのがある。
                 ( 貫首の言葉より一部抜粋 )


● 私(増澤)、真実を語り、真実に生きることの難しさを身にしみて感じています。
  ウソを言うな、欲をかくな、不実な行いをするな。 「 常に誰かに見られている 」。

  真実の目はただただしっかりと貴方を見つめている。
  
Posted by masuzawa05 at 11:24Comments(0)

2009年09月07日

接客について

 接客 ( 間合い ) について思い当たること。

例えばタクシーの運転手さん、やたらと話好きな人もいれば、ブスッとしてあまり喋らない人もいるし、最初からドライバーを始めたばかりでと、道のわからないのを謝ってばかりの人もいる。話好きな人は少し静かにしていたいと思っても、お構い無しに喋りまくって、すこしの気遣いも無い。いろいろと事情が有るにせよ、初心者タクシードライバーに謝られても、謝る前にもっとしっかり地図で勉強しろ! と言いたい。
私(増澤)としては、むしろいっときの出会いを特に演出する理由も無いので、最初と最後の挨拶さえキチッとしていれば後は何も喋らない人の方がいい。

たまたま家庭画報にユニークな三人の外国人によるお勧めレストランの記事が出ていました。その中の 「 日本人の接客について 」 の会話に、忘れていた 「 日本人の美徳 」 という世界に誇れる国民性を逆指摘されたように感じたので、以下にそのことを紹介します。

 三者三様、腕の組み方服装センスが個性的なところが気に入ってスケッチしてみました。

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沈黙は宝なり:

 『 静かで温かなサービス 』 についての会話です。


● ドラ(フランス出身); 私は日本のサービスはいいと思うんですけど、フランス料理店の接客にはもう少しユーモアやしなやかさがあると完璧なのに・・・・と思います。

◎ キャンベル(ニューヨーク出身); でも、アメリカの不自然な明るさや媚(こび)に比べると、東京の寡黙なサービスは実にいいものです(笑)。

● ドラ; そうそう、アメリカの給仕の方はすぐに自己紹介が始まるからまいってしまう(笑)。

◎ キャンベル; 日本のサービスは言葉が少なく静かだけれど、どこか自信に満ちて温かい。心地よいベールに包まれて、閉ざした心が開く感覚があるんです。そこに、食べる人の感覚を研ぎ澄ますような鮮烈な料理の刺激が混じり合い、情感が軽やかに煮つまっていく・・・。ニューヨークから帰るたびにホッとするんです(笑)。

○ ジェレヴィーニ(イタリー出身); 私も、作り物でない自然で居心地のよいサービスが好き。イタリアンに限っていえば、大声で連呼する賑やかすぎるサービスはちょっと自然じゃないと思うんですよ。

● ドラ; 東京もパリみたいに、映画館やレストランはもう少し遅くまで営業してほしい! ラストオーダーの時間が早すぎます。

◎ キャンベル; 映画や芝居や料理を通して人間が大人に成長していく、そのための時間を提供してほしいですね。
・・・・・・・・・・云々。
                                
 私(増澤)思うに、この人たち日本人より日本のことを良くわかっていると思う!

 以心伝心

 人柄

 心を込める

 寡黙(仕事に尽す)

 国柄を問わず、仕事に自信を持ち、相手をおもんぱかる利他の気持ちがあれば、良い接遇が出来るのでしょう。



 旅館のサービス・接客の仕方にもいろいろあるが、喋りすぎはうるさいし、喋らなすぎは気まずいし、自分の都合で動く人は最悪。
                      
丁度いいのは心からの笑顔と、気の利いたちょっとの言葉と、無駄のない身のこなし、 ‘ 体と心の間合いのとり方 ’ にみるプロ意識。・・・・・そう思われませんか。
  
Posted by masuzawa05 at 09:23Comments(1)

2009年09月02日

作家の感性に学ぶ・その

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 松岡正剛さんの千夜千冊を読んでいて知った。

◎ 松岡さん曰く: そのころぼくは ‘ 偉い ’ おじいさんと ‘ 変な ’ おじいさんには何の躊躇もなく敬意を払っていた。 『 遊 』 を編集するにあたっても、六十代以上の、できれば七十代の立派で変なおじいさんと会うことを目標としていた。国籍は問わない・・・・(中略) その一人に 龍膽寺(りゅうたんじ) 雄 がいた。
 彼は 『 荒涼の美学 』 を愛し、 『 殺漠の哲学 』 をサボテンから読みとったのである。
                               

 ● 変なおじいさんになりたい私(増澤)としては、早速調べてみた。龍膽寺さんはシャボテンに詳しいのだ。 

随筆集 『 シャボテン幻想 』 より 気に入った二編の詩。

○ 「 一人砂漠へ 」

ふるさとは はるか彼方
肩には 袋一つ
サボテンの曠野に われ一人たてり

昼のもやかかる 赤い砂岩のメッサ
空は高くはれて 雲ひとつ無いアリゾナの砂漠 

風は荒れ野に死して 地軸にしみるしじま
日は天に輝き 友はただ一人
わが足元の 影法師


○ 「 シャボテンの花に 」

ひと夜 砂漠に吹荒れた
あらしがやむと
バラ色にかわいた
しずかな朝あけがくる
月はただ死滅した天体となって
丘のかなたに傾き
かわいて枯れかけた岩かげのシャボテンは
天地に誰も見ない 妖しい美しい花を
ただ陽にむかってひらく
  そのような仕事を
  私はいつも空想する

ゆうべ 砂漠にふたたび
あらしがたけると
丘のかなたにひとすじ遠く
私がのこした足跡は
むなしく砂波のおもてに消え
岩陰のシャボテンは つつましく花をとじて
またたく星星と月の下に しずかにねむる
トゲを吹きぬける 淋しい夜風をききながら
  そのような人生を
  私はいつも空想する

 

● 正剛は 「 負の存在学 」 を感ずるというが、
私(増澤)、冷たく沈んではいるが、負の中にきらきらしたことばの 「 冴え 」 を感ずる。

 小学生の頃サボテン集めに凝ったことがあります。たしか花キリンとかいうキリンのような形で赤い花が咲くのが気に入っていて、遥か灼熱のアフリカに心遊ばせていました。
 ところでサボテンはアフリカとばかり思っていましたが、今思えばメキシコの方が知れていますね、テキーラの原料でもあるし・・・。話し変わって、テキーラの古酒は味も香りも色も、まるでブランディーのようで、以前メキシコで飲んだとき信じられないくらい旨く、本当にテキーラ? と聞き返したくらいです。

さて、話し変わって
 変なおじいさん考 最近のTVコマーシャルから:                  

山崎努 演じるところの初老の紳士、高校生ぐらいの孫娘からの問い掛けに                         
 
孫娘:池と沼はどう違うの
山崎:河童がいるかいないかだ
孫娘:ふ〜ん、そう
  納得できない孫娘、母親に携帯電話で尋ねる
孫娘:ママ、池と沼はどう違うの!
母親:河童がいるかいないかの違いじゃないの
孫娘:・・・・・。

後日つづき − 山崎:カッパは川だな・・・・・。


 偉いおじいさんになれないにしても、せめて変なおじいさんぐらいにはなりたいものだ。つまらないのはいやだ。 心豊かな ちょっと変わった おじさん、おじいさんで居続けたいと思っている。
 
    
年取ったらドッと心を解き放し、得意な事に特化して自由型で人を煙に巻きながら、
ヘラヘラと泳ぎ生きる。 そんな風に老い先を楽しまなくっちゃーと思ったりしている。
  
Posted by masuzawa05 at 15:10Comments(0)
心を形に表す
建築空間にはいろいろの「想い」がある。
具体的な平面から容積のある空間へと立ち上げるさまざまな作業の中で、オーナーの使い勝手や心情が、私の心を通して色づいていく。
思い入れ豊かに熟成された建築空間には、オリジナルでしなやかな空気が息づき始める。
豊潤で美しく、時に凛々しい。
機能的であることは大切なことですが、美的な創意工夫も大切な要素です。
そう思いながら設計しています。


増澤信一郎
S22年10月11日生まれ
芝浦工業大学建築工学科卒業
静岡県伊東市宇佐美在住
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