2009年07月27日
今どきの旅館に必用なもの・その17
◎ どうして 「 文学 」 は 「 文楽 」ではないのか。
「 音楽 」 は 「 音学 」 ではないのに・・・・・・。
文学者といえば、詩人や小説家よりも、大学で文学論を講じる学者が浮かぶ。文学が誤解される理由が文学という言葉自身のなかにあるように思える。
「 近代に入って小説はアカデミズムと結びつくことで難しくなっていった 」と語るのは浅田次郎氏だ。
エンターテイメント作家らしく 「 読者と乖離してはいけない 」 とも・・・・。文学が学問になってはいけないとする警鐘だろう。確かに、例えば古代日本の文学作品である 「 万葉集は 」 みんなで楽しむために編まれた。・・・中略
文学を文芸に置き換えると、詩人や小説家は、文学者ではなく、文芸者になる。芸者を広辞苑で引くと、最初に「 多芸な人 」とある。「 芸妓 」は四番目に出てくる。今日はどんな芸を読んでみよう。
以上 日経の 春秋 より。
● 私(増澤)、芥川賞と直木賞との違いは芥川龍之介さんと直木三十五さんに因んだ賞だとは知っているのだが・・・なにやら文学作品と大衆文芸の違いらしいが、本当のところ区分けがよく判らない。
「 日本の宿はお客様と乖離してはいけない。楽しくて、易しい優しさがその身上だ 」と浅田次郎さんの声が聞こえてきそうです。 易しい優しさ ( 気楽な設えや楽しいもてなし ) が一番難しいんですが・・・
立地、宿の造り、室礼、もてなし、料理、一目で判る易しさがいい。みんなで宿を楽しまなくては!
ところで、かつて団体旅行全盛時代の頃、お客さんに対する心構えとして著名なコンサルタントの K・Tさんや M・Hさんから、こう言われたことがあります。 お客は 「 ダ・ラ・リ 」の論理なんだよ、と。
旅館に来て 「 無駄・斑・無理 」 「 ムダ・ムラ・ムリ 」 をして息抜きをするんだから ( 三語の語尾を採って、ダラリの論理 ) 、その対応が従業員に出来なければダメなんだ。だからその辺を心得て設計しないと・・・・。
一応お聞きしたものの、そんなもんだろうか? 品性なんかどこへやら! もてなす側、もてなされる側、お互いのマナーも大切だろうに! ・・・・・と。
そんなわだかまりが心の中で疼きながら、もうちょっと互いに気高くありたいと設計者としてはひそかに思っていました。
お座敷大学や、芸者の格好で写真を撮る・・・・安易な発想、温泉地でよくやる手 ?
市長や町長は何を考えているのか! どこかが間違っている。町づくりは人づくり、温泉街も人づくり、そこからすべてが始まるのに。
どうして温泉や、旅館の良さ、その町の良さを本道でアピールしないのか!
オリジナルな地域・地勢に合った環境としての町並みと、町に住む人々の生活の輝きを体感して欲しい、そこにこそ観光の本質がある。
そこに住むことを愛し、そこに住むことを楽しんでいる住民であふれている町は、歩いていても楽しい。夜の遊興やお遊びだけではダメなんであって、そこに陽ざしを当てよう。
なぜその地域の自然環境を生かした施設や室礼 ( しつらい )、 料理やもてなしで勝負をしないのか、それが有っての観光地ではないのか・・・・それが悲しい。
麗しき山紫水明の国日本。本道に戻そう! やれば出来る、きっと出来る。
◎ 茂木健一郎さんは近著 「 日本のクオリア 」 の中で “ 易しさ・難しさ ”
“ 温泉宿 ” についてこう述べています:
学問が進むとは、易しいことが難しいことであると理解するものだという説もある。
この世で一番易しいこと、難しい事は実は一つのことである。そして、その二つを結ぶ節として、 「 私 」 が存在する・・・・・。
そんなことを考えながら畳の上に大の字になっていたら、いつの間にか眠り込んでいた。温泉宿の最高の贅沢は、思いもかけず微睡(まどろ)むことである。特に、考えてもすぐには詮方(せんかた)ない事はそうやってフェードアウトするのが良い。
眠りに不意打ちされる。その前後不覚の質もまた、宿の設いに左右されるような気がするのは不思議である。温泉宿とは、ついに、夢見るそのかたちを設計する場所ではなかったか。
お湯に入る。景色の良い露天は何よりの贅沢である。ふんだんに溢れる湯に浸かり、ひんやりとした外気に顔を出す。手で水をすくい、踊る模様を見つめる。
そうやってやり過ごしているうちに時は満ち、ご馳走の時間になった。
全てを委ねる。赤子になる。仏教僧は托鉢で生きる。我もまた、いただいたものを味わい、命と魂の糧とする。よく吟味された、素晴らしい夕食。メニューなどない。あれこれ選択することも無い。・・・・宿の方々の心尽くしに手を合わせる。
● 私(増澤)、他人(ひと)の感性を借りて ‘ 宿り ’ を再認識した気がする。
「 音楽 」 は 「 音学 」 ではないのに・・・・・・。
文学者といえば、詩人や小説家よりも、大学で文学論を講じる学者が浮かぶ。文学が誤解される理由が文学という言葉自身のなかにあるように思える。
「 近代に入って小説はアカデミズムと結びつくことで難しくなっていった 」と語るのは浅田次郎氏だ。
エンターテイメント作家らしく 「 読者と乖離してはいけない 」 とも・・・・。文学が学問になってはいけないとする警鐘だろう。確かに、例えば古代日本の文学作品である 「 万葉集は 」 みんなで楽しむために編まれた。・・・中略
文学を文芸に置き換えると、詩人や小説家は、文学者ではなく、文芸者になる。芸者を広辞苑で引くと、最初に「 多芸な人 」とある。「 芸妓 」は四番目に出てくる。今日はどんな芸を読んでみよう。
以上 日経の 春秋 より。
● 私(増澤)、芥川賞と直木賞との違いは芥川龍之介さんと直木三十五さんに因んだ賞だとは知っているのだが・・・なにやら文学作品と大衆文芸の違いらしいが、本当のところ区分けがよく判らない。
「 日本の宿はお客様と乖離してはいけない。楽しくて、易しい優しさがその身上だ 」と浅田次郎さんの声が聞こえてきそうです。 易しい優しさ ( 気楽な設えや楽しいもてなし ) が一番難しいんですが・・・
立地、宿の造り、室礼、もてなし、料理、一目で判る易しさがいい。みんなで宿を楽しまなくては!
ところで、かつて団体旅行全盛時代の頃、お客さんに対する心構えとして著名なコンサルタントの K・Tさんや M・Hさんから、こう言われたことがあります。 お客は 「 ダ・ラ・リ 」の論理なんだよ、と。
旅館に来て 「 無駄・斑・無理 」 「 ムダ・ムラ・ムリ 」 をして息抜きをするんだから ( 三語の語尾を採って、ダラリの論理 ) 、その対応が従業員に出来なければダメなんだ。だからその辺を心得て設計しないと・・・・。
一応お聞きしたものの、そんなもんだろうか? 品性なんかどこへやら! もてなす側、もてなされる側、お互いのマナーも大切だろうに! ・・・・・と。
そんなわだかまりが心の中で疼きながら、もうちょっと互いに気高くありたいと設計者としてはひそかに思っていました。
お座敷大学や、芸者の格好で写真を撮る・・・・安易な発想、温泉地でよくやる手 ?
市長や町長は何を考えているのか! どこかが間違っている。町づくりは人づくり、温泉街も人づくり、そこからすべてが始まるのに。
どうして温泉や、旅館の良さ、その町の良さを本道でアピールしないのか!
オリジナルな地域・地勢に合った環境としての町並みと、町に住む人々の生活の輝きを体感して欲しい、そこにこそ観光の本質がある。
そこに住むことを愛し、そこに住むことを楽しんでいる住民であふれている町は、歩いていても楽しい。夜の遊興やお遊びだけではダメなんであって、そこに陽ざしを当てよう。
なぜその地域の自然環境を生かした施設や室礼 ( しつらい )、 料理やもてなしで勝負をしないのか、それが有っての観光地ではないのか・・・・それが悲しい。
麗しき山紫水明の国日本。本道に戻そう! やれば出来る、きっと出来る。
◎ 茂木健一郎さんは近著 「 日本のクオリア 」 の中で “ 易しさ・難しさ ”
“ 温泉宿 ” についてこう述べています:
学問が進むとは、易しいことが難しいことであると理解するものだという説もある。
この世で一番易しいこと、難しい事は実は一つのことである。そして、その二つを結ぶ節として、 「 私 」 が存在する・・・・・。
そんなことを考えながら畳の上に大の字になっていたら、いつの間にか眠り込んでいた。温泉宿の最高の贅沢は、思いもかけず微睡(まどろ)むことである。特に、考えてもすぐには詮方(せんかた)ない事はそうやってフェードアウトするのが良い。
眠りに不意打ちされる。その前後不覚の質もまた、宿の設いに左右されるような気がするのは不思議である。温泉宿とは、ついに、夢見るそのかたちを設計する場所ではなかったか。
お湯に入る。景色の良い露天は何よりの贅沢である。ふんだんに溢れる湯に浸かり、ひんやりとした外気に顔を出す。手で水をすくい、踊る模様を見つめる。
そうやってやり過ごしているうちに時は満ち、ご馳走の時間になった。
全てを委ねる。赤子になる。仏教僧は托鉢で生きる。我もまた、いただいたものを味わい、命と魂の糧とする。よく吟味された、素晴らしい夕食。メニューなどない。あれこれ選択することも無い。・・・・宿の方々の心尽くしに手を合わせる。
● 私(増澤)、他人(ひと)の感性を借りて ‘ 宿り ’ を再認識した気がする。
Posted by masuzawa05 at
09:01
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