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増澤信一郎の心模様 石井建築事務所ブログ

2009年04月28日

言葉を掛けること

152     

 








    


● 当たり前の事って、気恥ずかしくて案外言えないことが多い。でもそれでは、だめなんであって、

 「 おはようございます 」

 先に職場を辞するとき 「 お先に 失礼します 」

 事務所から出掛けるとき              
 「 ○ ○ の打ち合わせに行ってまいります。何時ごろに戻る予定です 」
 帰ったとき 「 ただいま 戻りました 」

いつもの床屋で農家のお爺さん、散髪が終わって、帰り際の一言。
 「 お世話さまでした 」 他人(ひと)の手をわずらわす事への感謝の気持ちを表す
美しい言葉。
                           
私、この言葉にしびれたのを思い出しています。もちろんそれから、床屋の帰
りがけや、タクシーの降りがけに一言申し添えます 「 お世話さまでした 」 と。


 「 ありがとう 」

 「 ごちそうさまでした 」
                         
「 どうも ・・・ 」 で言葉をにごすんではなく
はっきり言いましょう! 「 ありがとう 」 「 ごちそうさまでした 」。


● 最近、知り合いからの定年退職の電話や手紙が多くなりました。

まだまだ元気で働けるのに、現役を退かざるを得ない仲間に、なんと言ってあげたらよいのかといつも戸惑う。

 「 お疲れさま 」 は空々しいし、

 「 がんばれ 」 は安直で無責任だし、

 「 第二の人生を楽しめ 」 は他人事(ひとごと)である。

 それでも良いのだけれど、つまるところ変わらぬ健康を祈るしかない。

相手の気持ちを おもんぱかる 心があれば適切な言葉が掛けれるのに・・・・。
気合を入れて 品格の有る一言を選ぶ、 日々のトレーニング。


◎  先日の日経・実践マナー塾にこうありました。 

 ひと言の魔法:
                               
ニューヨーク支店に配属の決まった知人は 「 ほんとですか! 」 と飛び上がって喜び、 「 ありがとうございます。 がんばります 」 と口には出したものの、心のどこかには 「 こんな私でもいいのだろうか 」 という謙譲の気持ちもあった。でもそれを上手に伝えられず、ひたすら上司に向かって 「 ありがとう 」 をくりかえしたという。                                        
( I will do my best : がんばります! だけでは物足りない。どういう状況で選ばれたのか、奥ゆかしい気持ちを言葉に込めて礼を尽くす )

 似たような経験を私もしたことがある。それは大抜てきでうれしさと不安をごちゃまぜにしながら、結局は 「 ありがとうございます 」 としか言えなかった苦い思い出。

 そして、もしそのとき 「 このような機会をいただき 」 というひと言を知っていたなら、もっと自然に謙虚に感謝の気持ちを伝えられたと思うのだ。 「 私に、このような機会いただきまして本当にありがとうございます。未熟ですが力いっぱいがんばりますのでよろしくお願い致します 」 と。
 こういわれたなら上司も好感をもってくれたうえに、ただ 「 ありがとう 」 の連呼よりはずっと信頼度も増して仕事を任せてくれるに違いない。

 何かチャンスを与えられたり特別に選ばれたり、仕事に抜てきされたりしたとき、また発表やプレゼンの最後のあいさつにも 「 このような機会をいただき 」 を使って謙虚に感謝を伝え、幅のある人間に成長したい。


● 私(増澤)思いますに、頭で分かっていても、すらっと普段使いでそういうことが言えないといけませんね。
  

Posted by masuzawa05 at 08:54Comments(0)

2009年04月20日

安さだけで買うな

152’安さだけで買うな

       

     





○ 今まさに節約ブームですが 「 安さだけで買うな 」 と問題提起されていますね:

 「 お金は欲しいものを手に入れるだけでなく、応援したい企業や商店、作り手に拍手を送るために使うものです。マヨネーズがスーパーで百八十円で売られていても、商店街のおばあちゃんの店で二百円で買うこともある。マヨネーズを使う料理を教えてもらったり、笑顔がすてきだったり。おばあちゃんの店で買うと幸せな気持ちになるといった付加価値があればいい 」
 「 企業と消費者は助け合うもの。異常に安い商品があったら、消費者には                 『 なぜ安いのか 』 と考える責任がある。安さの理由を考えて 『 気がひける 』
なら、買うのをやめたほうがいい。生産者に圧力をかけて安く仕入れているのではないか、不当にもうけている人はいないか。払うお金の行き先まで目配りしたい 」
 「 そうした消費者倫理を義務教育で教えるべきではないか。消費者を育てる教育をすれば、それが経営の考え方を変え、社会が少しずつ変わっていくはずです 」

○ 時には 「 無駄遣い 」 も必用だとお考えとか:

 「 作家の池波正太郎さんはタクシーに乗ると必ずチップを渡していたそうです。運転手さんはうれしくなって次のお客さんに愛想良くなる。その乗客は気分が良くなり、降りた先で気持ちよく人と接する。自分が渡したお金から小さな幸せが連鎖して広がっていくのです。景気対策で支給される定額給付金でそうした無駄遣いをしてみたらどうか。どうしたら人に小さな幸せを与えられるか考えて使ってみる。そこから新しいきずなが生まれるかもしれない 」

○ 無駄遣いをしたいと思わせるには企業の努力も必用では:

 「 客が来ないのは不況のせいばかりとも言えません。消費者が買わなくなったとしたら理由がある。例えば日本の伝統工芸。職人芸の継承に繋がる点からも、いい無駄遣いの対象だと思いますが、時代に合ったものを作っているかが問われます。最近、ワイングラスに漆で名入れをするサービス利用したことがありますが、そういった時代に合った新しいものを企画するプロデューサーも必要でしょう 」 そして、生産者、販売者、消費者すべてがハッピーになる消費を! と結んでいます。  ( 日経 領空侵犯より抜粋 )


● 話し変わって、私(増澤)思いますに、近頃の政治・・・すくなくとも一国の総理をケチョンケチョンにけなす野党や同僚議員の品の無さ、悪口を言ってばかりでは育ちが知れますねえ・・・、他人のことをどうしてそんな風に言えるんだろうか? 正しく天に唾をするようなもんだ。先ずは相手の質を問う前に自らの質を問うべきで、それが日本人の美徳である。そういった意味では双方に日本を背負って立つ心の寛い政治家は居そうに無い。
                                  
国際政治の世界で必用なのは見識と品格とユーモアであり、世界に向けグローバルに天下国家の正論を吐く国士はいないのか。そう、この程度の国民にこの程度の議員、嘆かわしい。

 高校時代の同級生で尊敬できる友が一人だけ居ます。
彼は、「 他人の悪口 」 と 「 言い訳を 」 決してしない。私、真似ようと思ってもつい口に出てしまいます。私にとっては小さな神様で、彼の周りには好い輪が拡がり、その輪の中の一人として四十数年の交友(交遊)が続いています。


 安さだけで買うものもある、ただし、安さだけで買うのもどうかと思い始めています。スイスの人は高くても敢えて自国の農産物を買うという。それが自国の農業を支え、安心な作物を得て、気持ちよく暮らせるからだ。成熟したおとなの見識を感ずる。安さの裏に潜む何かを見極め、本当に価値のある 『 ほんもの 』 を見極める目を持ちたいと思っている。
                                           
価値のある ‘ 安さ ’ は真の ‘ 高価 ’ である。 そうざらには無い。
ジタバタ騒がずに、回りまわってすべてがハッピーになるために、 『 利他の心 』 を持とう。そこからすべてが始まる。


“ 日本旅館は ただ泊まるため だけの手段ではない ”
                 
ここでは 「 安さだけで泊まるな 」 と言いたい 。
                    
もてなしと室礼の中に四季の情感を通わせ、生気がみなぎる ‘ 宿り ’ が大切
なのです。


* (ところで、小山さんの脚本で映画 「 おくりびと 」 が外国語映画部門のアカデミー賞を受賞しました。おめでとう御座います。 英文タイトルが 「 Departures 」 : 出発、ですから、あの世への旅立ち仕掛け人とでも訳したいところでしょうか )
  
Posted by masuzawa05 at 13:29Comments(0)

2009年04月13日

地産地消について

旅をすると地元の料理を食べたいと思う。そんな時めぐり会った一冊の料理本。


 French Otowa’s Style
「 地元素材を生かす新フランス料理 」 : 音羽和紀 。


151'
     







◎ 縁あって益子町に 「 リス・ブラン 」 をオープンした。客席34ほどの小さな店だが、自然に囲まれたこの環境の中で料理を作り提供できることがとても心地よい。

 地場の素材をどう取り入れ生かすかを考えることは、私にとって以前からのテーマであり、言葉でいい続け、そして実行し続けてきたことであるが、この店では毎日それが自然に行える。あるいはそうしなければ、こういう立地の店で料理に特徴を出すことは難しいとも言える。
 この場所でレストランをやるからには、野菜の使い方に関してこれからもどんどんチャレンジしていきたいと思っている。野菜と肉のマリアージュ、野菜と魚介のマリアージュ、そして野菜と野菜のマリアージュ。ひとつの野菜が他の素材と出会ったときに奏でるハーモニーは多様である。野菜の郷であるこの益子で、野菜を中心にうまく表現できれば、 「 リス・ブラン 」 の形がよりはっきりと出来上がってくると思う。
 素材を知れば知るほど、その可能性はどんどん広がっていく。身近なものならいろいろ試してみることもでき、そのうちにその素材が自然に使いこなせるようになる。こうして地場の素材ぐらいには精通していたいと思う。

 ヨーロッパに行っていつも感嘆させられるのは、料理人たちが、自分達が住む地域やその食材、それを使った料理について、誇りを持って語ることである。レストランというのは、多くの人たちに地元の食材を、そしてその調理方法をお披露目するプレゼンテ―ションの場でもある。もちろんそれはレストランばかりでなく、農業、飲食業、観光すべてが一丸となって街をもり立てる。ヨーロッパを旅していると、各々の地域の伝統的な建築様式の建物の中で、地元の画家の描いた絵を飾り、地場の食材使った料理を提供しているレストランをよく見かける。そういう店のおかげで、私たちは地域ごとの違いを理解し、旅をする楽しさ、料理を味わう喜びを感じることができるのである。日本で同じことをするのはなかなか難しいが、そうでなければ本当の意味で豊かだとはいい難い。

 地方でレストランをやっている人に申し上げたいのは、いつまでも東京と同じ視点でものを考えてはいけないということ。地場のものを自分の経験と技術によって、自分の料理として出せるようにしていくことが、それぞれの地域で頑張る料理人のもっとも大事な役割だと思っている。それがひいては店を特徴づける結果にもなる。加えて、食の大切さ、楽しさを伝える活動、次世代の料理人の育成、行政と協力しての食材開発や食育など、地元だからこそ出来ることも多くある。そうした意識を持って料理に取り組む料理人が、日本各地に生まれることを願っている。


 続いてこう述べています:

○ その土地に住むものにとっては当たり前の景色も、よその人から見たら、驚くほどの特徴があったりする。私たちにはなんでもない料理でも、珍しく感じる人もいる。そんな故郷と、故郷の 「 食文化 」 を見つめ直し、良いところを活かしながらおいしい料理を作っていこう、そしてできるだけ沢山の人に喜んでもらおう、そう考えています。

○ 最近、 「 食育 」 という言葉が急速に広まってきました。でも、食育ってどんなことでしょう。
 手元の辞書にはまだその言葉は無いので、似たような熟語 「 体育 」 を引いてみると、 『 健全な身体を作る教育 』 と書いてありました。これに習って説明するなら、食育とは 『 健全な食を身につけるための教育 』 ということでしょう。


春 :printemps

春     









店のまわりの林や山の木々が芽吹き始める
少しずつ黄緑色が広がってくると、春の到来を感じる。
やがて桜の花の淡いピンク色とまじり合い
なんともいえないやわらかい色合いに染まっていく。
素材ではグリンピースやそら豆、グリーンアスパラガスといった
緑の野菜が出はじめ、皿の上で春を表現するのに大いに活躍してくれる。
5月ごろに出る葉玉ねぎと新玉ねぎも、楽しみにしている野菜である。
使える期間が短いからこそ、この時期に存分に味わいたい。
いちごは冬の大粒のものにかわり、小粒のものが出回る。
味はおいしく安定しているので、デザートにサラダにとよく使う。


夏 :Ete

夏     










真夏は野菜が少ない時期だが
メロン、なす、きゅうり、トマトなど
この季節においしい素材を効果的に使う。
後半になると、おいしいかぼちゃも出はじめる。
暑い真夏は食欲も細るので、料理には涼しさ
さっぱり感を出すことが重要。
温度はもちろん濃度にも気を使う。
野菜のソルベやゼリー状のデザートなどは
この季節のコース料理に涼しさを添える重要な役割を果たしている。


秋 :Automne

秋     







山の紅葉も少しずつ進み
近くの遊歩道を歩くのも気持ちのいい季節。
葉物、ねぎ類、根菜など使える野菜が多くなる時期である。
洋梨、りんごといった果物もおいしいし、きのこもたくさん食べたい。
野生のしめじ類はなかなか手に入りづらいものだが
手に入ったときにはできるだけシンプルに料理する。
10月になると林の栗の木から栗が落ち始める。
この時期は料理にもデザートにもたくさん栗を使う。
料理はクリーム煮、グラタンなど少しこってりしたものが多くなる。
体もそういうものを要求しはじめるころ。
おいしい料理を作りやすい、料理人にとっては楽しい季節である。


冬 :Hiver

冬     








11月になると、5月に続いて2回目の陶器市の準備で
益子の町はまた忙しくなる。
野菜はにんじん、大根、かぶ類、キャベツ、ブロッコリー、
カリフラワー、クレソン、そして春菊、からし菜、水菜といった
日本の食卓でおなじみの葉野菜もおいしい季節。
これらをどう自分の料理の中で消化し
すばらしいマリアージュを生み出せるか。
それがこの店における大きなテーマのひとつである。
                 文中より抜粋。


● 私(増澤)思いますに:

 その地域、環境に合った建築空間の中で、懐かしくも慈しみ深いもてなしと室礼(しつらえ)に満たされて心和みつつ、地産の簡素で豊かな季節の ‘ 恵みを ’ 食す至福のひととき、 『 和の宿り 』 に託す我ら心意気や如何。
 ( 和 : やわらぐ、やわらげる、なごむ、なごやか、和は最高の徳行示す言葉 )

 日本全国、どこを切っても金太郎飴のような同じ料理から決別し、オリジナルな地産地消の料理を目指そう。そこにこそ、日本の伝統文化風土に根ざした、スローで豊かな、そして熟成度の高い、これからの日本におけるグローバルな 『 ツーリズムと宿り 』の真の姿が垣間見えてくる。
  
Posted by masuzawa05 at 11:21Comments(0)

2009年04月06日

心に残る建築家の言葉・その22

かつて京都駅舎についての景観にまつわる賛否両論があった。そのことを私なりに気に掛けていて、今から十数年前に京都駅前ビルの一室を借りた建築家協会主催の彼のシンポジウムに参加した。出来てしまっているのに執拗な反対者が居るためか、質問は一切受け付けないという条件付・訳ありのシンポジウムでしたが、その後の彼の著作を通じての邂逅。
              

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◎ 設計者の考えを大勢の人々に分かってもらうのには、良いチャンスだと思うのですが:

 うまく説明できるなら、その通りだと思います。しかし、私自身にもよく分かっていない側面もあって、政治的に賛成と反対がはっきりしている京都では、討議をするとしても、うまくいかないでしょう。おそらく、私はなにも発言できないような状況に立たされると思います。

○ 政治の話と切り離して、景観を論じることはできないのですか:

 景観を研究している人も多数いますが、うまい計量はなかなかできませんし、そもそも主観的な判断が基礎になると思います。ですから、具体的な事例に関しては政治的にならざるを得ないでしょう。

 建築や都市の景観には、イエスとノーでは語りきれない性格がある。ある面からすればまずい点もあり、他の面からすれば良い点もある、というかたちになっているのではないでしょうか。特に京都では対立の構図が鮮明なので、とても大勢の人に分かってもらうような説明はできないでしょう。設計者が発言するにふさわしい場所ではない、と思います。

○ 具体的なプロジェクトを持ち出すと話が難しくなる:

 京都駅は、自然を破壊する極端に大きな建物を建てるといった場合とは、いささか問題が異なっている、と私は解釈しています。判断が難しい事例です。設計者としては判断しきれない経済活動などもかかわってきますから。設計者の発言には、かなり限界があります。

○ 景観という言葉で議論できないなら、なにかほかに、みんなが共有することができるテーマはないのでしょうか:

 人間の経験、中でも空間体験というものは、厳密には言語に変換できないと私は思っています。その言語に変換できないものを、言語で話そうとしている。そのこと自体、本当に大丈夫なのか。そこまでさかのぼらないと、言語で語ることが何を意味するかも定かではないでしょう。

 ただ、言葉抜きにはコミュニケーションはできませんから、そうした困難さを共通して認識した上で対話があるべきです。

○ 市民という概念:

 「 市民いう言葉は、果たして 『 一般の人間 』 と同じ概念を指しているのか、いないのか 」 ということなんです。
 一般には 「 市民 」 という概念はよく使われますが、それは言語として適当なのか。 「 地域の住民がすなはち市民 」 という考え方はまずいのではないか、と私は思っているのです。

○ 京都駅は地域の住民だけのものではない、ということですね:

 駅は第一に、住んでいる人々にとって関連が深い施設ですが、同時に、京都を訪れ、通過していく人々の施設でもあります。おそらく 「 市民 」 は 「 住民 」 といった概念より広い意味を持っているのでしょうが、それでもまだ狭いのではないか、といった考え方もあり得ると思います。                                 
たとえばヒューマンスケールにしても、かつて集落や町屋に見られた寸法と同時に、新しい状況における新しい寸法の体系も当然あってしかるべきでしょう。それは、従来の体系とは異なった大きな寸法の体系であるかもしれません。

 そのことは、都市空間がすべての人々を等しく迎えるという基本的な態度の表明につながるかもしれない。私自身、十分に確信が持てているとは言えないのですが、そうした直感的判断があるのです。
 この辺りを、 「 市民 」 の概念と関連して検討すべきでしょう。すぐ結論が出るわけではないと思いますし、試行錯誤の過程もやむを得ないでしょうが。

○ そういう問題を提起したつもりであった? :

 私自身、分かっていない部分が多いいのでうまく説明できず、言葉足らずで誤解を生じたということは多分にあったでしょう。その点は反省していますが、むしろ私は京都駅で、昔からの小さな寸法と新しい寸法をもって今日の都市のあり方を表明するという課題を与えられた、と考えた。そうした考え方が成立するのかを確かめるつもりだったのです。


 ● 私(増澤)、思いますに、

 建築という名のミニ街区を、古都京都の玄関口に嵌め込む。あれは建築ではない建築。空間体験で言うと、京都駅で新しい形、スケール、の都市の断章に紛れ込んだ気がする。

 五重塔や神社仏閣的な形態模写駅舎ではなく、モダンな混沌のゲート。新しいものを常に取り入れてゆく古都・京都の、来し方行く末の‘ 意識の産物 ’として私には違和感は無い。旧来の保存すべき町並みはそのままに残しながら、むしろ今は馴染んでいるように思える。伝統的なものは進化しながら時代に寄り添う。

 これは、彼の言葉を借りれば、訪れる人が 『 建築空間をどう感じるか 』 その事を聞いてみたいと仰っています。


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ただ駅舎を俯瞰し、線路を挟んで両面を歩いてみるとわかるのだが、そこには歴然として表と裏が存在する。京都駅の顔としての正面と駅裏がある。             
駅を介して両面のつながり、なじみ、融合が図れなかったのか、元々在った街並みではあるが、人の流れと風通しを配慮して、 『 表 』 にへつらわない、優劣無しのマルチ・ゲートが作れなかったのか!?
         
既成の概念に拘らないデザインをしようとするのであっても、街の繋がりに対して配慮し、裏であって裏ではないアイデンティティーが欲しかった。一度ぐるりと、両面を歩いてみてください。私の感覚は正しいと思えるのですが、そのことが心残りである。

  
● 時の経過は先入観念を変え、馴染み、そして景観となる。と私(増澤)は思っていて、修学旅行に訪れた学生たちに、神社仏閣・京都弁・枕投げ・八つ橋のおみやげと共に階段状駅舎の大空間が心に刻まれるであろう。


 これは原さんが建築の原点探しに、海外の集落を実地踏査していた若かりし頃のスナップです。

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 続いて

◎ 具体的に、どんな人に支持してもらいたいと思っていますか: との質問に

 「 言うまでも無く、京都に住む方々に支持していただけることが最もありがたいことですが、京都を訪れる人々の意見も聞いてみたいですね 」。

 「 極端に言えば、子どもたちに分かってもらえればそれでいいのです 」と結んでいます。

   
               
● 京都にお住まいの方、 今、 「 駅舎をどう捉えておられるでしょうか 」      
私(増澤)に是非聞かせてください。

  
Posted by masuzawa05 at 10:02Comments(0)
心を形に表す
建築空間にはいろいろの「想い」がある。
具体的な平面から容積のある空間へと立ち上げるさまざまな作業の中で、オーナーの使い勝手や心情が、私の心を通して色づいていく。
思い入れ豊かに熟成された建築空間には、オリジナルでしなやかな空気が息づき始める。
豊潤で美しく、時に凛々しい。
機能的であることは大切なことですが、美的な創意工夫も大切な要素です。
そう思いながら設計しています。


増澤信一郎
S22年10月11日生まれ
芝浦工業大学建築工学科卒業
静岡県伊東市宇佐美在住
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