2009年01月26日
心に残る建築家の言葉・その21 小嶋一浩+赤松佳珠子
私(増澤)、 「 土地 と 建物 と 人 」 を考えていて 行き詰っていました。
そんな時、
◎ カルティベイト(Cultivate)=耕すように建築する。ある日この言葉が目に飛び込んできました。
早速、 ギャラリー 『 間 』 で開かれた 小嶋一浩+赤松佳珠子(かずこ)、CAt展に行ってきました。
今回は3つのプロジェクトの展覧会をしていました。
以下、TOTO出版 「 耕すように建築する 」 より
<耕す> という言葉は、「社会を耕す」 「人を耕す」 といった具合に社会学や教育の世界でも用いられる。最近の身近な世界やグローバルという意味での世界を見ていると、こちらもどんどん荒地になりつつあるように思う。そうした中で建築家として私たちに何ができるのだろうか?
以下の3プロジェクトでは、そうしたことまでが様々な局面で、好むと好まざるに関わらず射程に入ってきてしまう。
一、 UCA (University of Central Asia)
Naryn Campus キリギスに在るナリンキャンパスであり、タジキスタン、カザフスタン、キリギス共和国の3カ国にそれぞれ1つずつキャンパスを持ち、3キャンパスあわせて1つの大学となる、壮大なプロジェクトである。
首都ビシュケクから車で5〜6時間、海抜2000m、中国国境の北西に位置しているナリン。その街の西端、レッドマウンテンと呼んでいる高低差200m断崖絶壁に沿った全長5Kmの谷全体が敷地である。「ネックレス」と呼ぶジオメトリーとともに建築群を滑り込ませることにした。風の向き、日当たり、谷と川の高低、夏暑く冬は酷寒の地にあって、多くの建築家やエンジニアやランドスケープデザイナー、複数の設計者のコラボレーションよって進められている。
二、 project MURAYAMA
日産自動車武蔵村山工場跡地に「 全ての人々がやすらぎ、祈りをささげたくなるような場所 」が計画されるようになった。クライアントは仏教の一宗派の教団・真言密教(真如苑―余談ですが、先日ニューヨークの仏像 ( 大日如来坐像 ) オークションで三越のバイヤーが14億で落札した運慶作と言われている物を手に入れた宗教団体)であるが、宗教、宗派を超え、仏教だけでなく他の宗教の人達にも受け入れられる、共に平安、平和を祈る場所を生み出すことが求められている。106haの敷地において空間の大半は森や自然的なランドスケープとなり、寄り添うような建築も徐々に立ち上げ、30年を区切りとする壮大なものである。宗教の違いを越えた ‘ 祈りの空間 ’ を考えるということは、特定の宗教的イコン( 仏像や十字架 )を用いないで、いかにして、 普通の公園でない < 祈り > の場所を生み出すかを考えて提案することであり、
将来にわたって 「 耕し続ける 」 ことの出来る、最終形を設定しない可能性の場所のためのプラットホーム、あるいは様々な曲 ( イベント )を奏でることのできる‘ 楽器となる空間 ’ の計画をすることである。
三、 HUA ( Ho Chi Minh City University of Architecture )
ホーチミンシティ建築大学新キャンパスプロジェクト。
敷地はホーチミン市の郊外、メコンデルタの端の低湿地帯に位置する約37haのエリアであり、そこにはメコン川の支流に沿うマングローブの群生、水位差1.5mのほとんど水面のような地盤、厳しい気候と豊かな植生といったメコンデルタならではの圧倒的な自然が存在する。私たちは、この敷地に対して、周辺と切り離すのではなく、地盤より少し高くした輪中(リングロード)と共に、緩やかな「流れ=フルイド」を許容する一筆書きのジオメトリーを滑り込ませて、熱帯地域にも関わらず冷房を前提としないで自然の通風で快適さを創り出す計画を提案した。ここでは近代で繰り返された「自然の支配」ではなく、今ある自然を最大化して捉え、共存するという方法を試みている。だから、敷地を知り、気候や水位変動、地質のデータを読み取り、現地の生活文化をサーヴェイすることは、とりわけ重要となった。
3プロジェクトの共通点は 「 膨大な敷地 」である。長く関わっているにもかかわらず、いまだ設計途上である。どうやらどれも 「 耕し続けているのだ 」 ということである。従来なら、こうしたプロジェクトを <開発> と呼んでいたであろう。では、<耕す> のと <開発> するのは、どうちがうのか?
○ <開発> は、「計画」や「 マスタープラン 」といつもセットだった。「 マスタープラン 」でゴールを設定し、走り方を「 計画 」してしまえば、とりあえずそれを信じて一斉に走ることができる。そして、20世紀の100年をかけて、あるいはそのもっと前から効率よく地球を壊し続けてきたのだろう。それこそ大量生産のみを目的とし技術をつぎ込んで行われてきた開発的な農業も含めて。
進行中のこれらプロジェクトではその辺りの前提が全く異なってきたことを感じている。まず、「 計画 」 という前提そのものが、議論され続ける。「 マスタープラン 」 など所詮は暫定的だという理解が、共有されている。ゴールは、必ずしも クリア ではない。それ故大勢で同時に走るのはえらくたいへんそうである。今までなら 「 計画 」という名のもとに当たり前に決まっていたことや、逆に切り捨ててきたような事柄も含めて、全部が浮遊する変数と化しているからである。しかし、変数全部を同時に動かしてもなんとかなるような方法そのものを設計できるのではないか、という期待も有る。そうした状況が、
「 耕し続けている 」 のではないかという感覚に重なってくる。
● Designing an Instrument Rather than a Song= 作曲ではない。 楽器を設計する。 ( instrument; 器具、楽器 )
数十年後も、その時代に登場するであろう人々によって耕され続けるサイトで、われわれがターゲットとすべき < 設計 > とは、ある楽器を前提とした鮮やかな作曲ではなく、むしろ楽器そのものを設計することではないだろうか。 以上 本文より。
私(増澤)以前、ホーチミン市 ( 旧称 サイゴン ) を旅して、メコンデルタに行ったときのこと、中州の一画にある民家の周りをジャスミンの垣根が巡らされており、品のいい初老の御夫婦が淡々とジャスミンの花を摘んでいた思い出がよみがえってきました。ジャスミンティーでも作るのでしょうか。
香り立つような美しい光景で、恥ずかしながら暫く覗き込んでいました。そこに創る 『 HUA 』 には出来上がったあかつきには是非とも訪れてみたい。
人の 感性・琴線 にふれる オリジナルな 『 楽器 』 をもて、
四季の移ろいを宿す 「 日本を耕し続ける 」
そんな時、
◎ カルティベイト(Cultivate)=耕すように建築する。ある日この言葉が目に飛び込んできました。
早速、 ギャラリー 『 間 』 で開かれた 小嶋一浩+赤松佳珠子(かずこ)、CAt展に行ってきました。
今回は3つのプロジェクトの展覧会をしていました。
以下、TOTO出版 「 耕すように建築する 」 より
<耕す> という言葉は、「社会を耕す」 「人を耕す」 といった具合に社会学や教育の世界でも用いられる。最近の身近な世界やグローバルという意味での世界を見ていると、こちらもどんどん荒地になりつつあるように思う。そうした中で建築家として私たちに何ができるのだろうか?
以下の3プロジェクトでは、そうしたことまでが様々な局面で、好むと好まざるに関わらず射程に入ってきてしまう。
一、 UCA (University of Central Asia)
Naryn Campus キリギスに在るナリンキャンパスであり、タジキスタン、カザフスタン、キリギス共和国の3カ国にそれぞれ1つずつキャンパスを持ち、3キャンパスあわせて1つの大学となる、壮大なプロジェクトである。
首都ビシュケクから車で5〜6時間、海抜2000m、中国国境の北西に位置しているナリン。その街の西端、レッドマウンテンと呼んでいる高低差200m断崖絶壁に沿った全長5Kmの谷全体が敷地である。「ネックレス」と呼ぶジオメトリーとともに建築群を滑り込ませることにした。風の向き、日当たり、谷と川の高低、夏暑く冬は酷寒の地にあって、多くの建築家やエンジニアやランドスケープデザイナー、複数の設計者のコラボレーションよって進められている。
二、 project MURAYAMA
日産自動車武蔵村山工場跡地に「 全ての人々がやすらぎ、祈りをささげたくなるような場所 」が計画されるようになった。クライアントは仏教の一宗派の教団・真言密教(真如苑―余談ですが、先日ニューヨークの仏像 ( 大日如来坐像 ) オークションで三越のバイヤーが14億で落札した運慶作と言われている物を手に入れた宗教団体)であるが、宗教、宗派を超え、仏教だけでなく他の宗教の人達にも受け入れられる、共に平安、平和を祈る場所を生み出すことが求められている。106haの敷地において空間の大半は森や自然的なランドスケープとなり、寄り添うような建築も徐々に立ち上げ、30年を区切りとする壮大なものである。宗教の違いを越えた ‘ 祈りの空間 ’ を考えるということは、特定の宗教的イコン( 仏像や十字架 )を用いないで、いかにして、 普通の公園でない < 祈り > の場所を生み出すかを考えて提案することであり、
将来にわたって 「 耕し続ける 」 ことの出来る、最終形を設定しない可能性の場所のためのプラットホーム、あるいは様々な曲 ( イベント )を奏でることのできる‘ 楽器となる空間 ’ の計画をすることである。
三、 HUA ( Ho Chi Minh City University of Architecture )
ホーチミンシティ建築大学新キャンパスプロジェクト。
敷地はホーチミン市の郊外、メコンデルタの端の低湿地帯に位置する約37haのエリアであり、そこにはメコン川の支流に沿うマングローブの群生、水位差1.5mのほとんど水面のような地盤、厳しい気候と豊かな植生といったメコンデルタならではの圧倒的な自然が存在する。私たちは、この敷地に対して、周辺と切り離すのではなく、地盤より少し高くした輪中(リングロード)と共に、緩やかな「流れ=フルイド」を許容する一筆書きのジオメトリーを滑り込ませて、熱帯地域にも関わらず冷房を前提としないで自然の通風で快適さを創り出す計画を提案した。ここでは近代で繰り返された「自然の支配」ではなく、今ある自然を最大化して捉え、共存するという方法を試みている。だから、敷地を知り、気候や水位変動、地質のデータを読み取り、現地の生活文化をサーヴェイすることは、とりわけ重要となった。
3プロジェクトの共通点は 「 膨大な敷地 」である。長く関わっているにもかかわらず、いまだ設計途上である。どうやらどれも 「 耕し続けているのだ 」 ということである。従来なら、こうしたプロジェクトを <開発> と呼んでいたであろう。では、<耕す> のと <開発> するのは、どうちがうのか?
○ <開発> は、「計画」や「 マスタープラン 」といつもセットだった。「 マスタープラン 」でゴールを設定し、走り方を「 計画 」してしまえば、とりあえずそれを信じて一斉に走ることができる。そして、20世紀の100年をかけて、あるいはそのもっと前から効率よく地球を壊し続けてきたのだろう。それこそ大量生産のみを目的とし技術をつぎ込んで行われてきた開発的な農業も含めて。
進行中のこれらプロジェクトではその辺りの前提が全く異なってきたことを感じている。まず、「 計画 」 という前提そのものが、議論され続ける。「 マスタープラン 」 など所詮は暫定的だという理解が、共有されている。ゴールは、必ずしも クリア ではない。それ故大勢で同時に走るのはえらくたいへんそうである。今までなら 「 計画 」という名のもとに当たり前に決まっていたことや、逆に切り捨ててきたような事柄も含めて、全部が浮遊する変数と化しているからである。しかし、変数全部を同時に動かしてもなんとかなるような方法そのものを設計できるのではないか、という期待も有る。そうした状況が、
「 耕し続けている 」 のではないかという感覚に重なってくる。
● Designing an Instrument Rather than a Song= 作曲ではない。 楽器を設計する。 ( instrument; 器具、楽器 )
数十年後も、その時代に登場するであろう人々によって耕され続けるサイトで、われわれがターゲットとすべき < 設計 > とは、ある楽器を前提とした鮮やかな作曲ではなく、むしろ楽器そのものを設計することではないだろうか。 以上 本文より。
私(増澤)以前、ホーチミン市 ( 旧称 サイゴン ) を旅して、メコンデルタに行ったときのこと、中州の一画にある民家の周りをジャスミンの垣根が巡らされており、品のいい初老の御夫婦が淡々とジャスミンの花を摘んでいた思い出がよみがえってきました。ジャスミンティーでも作るのでしょうか。
香り立つような美しい光景で、恥ずかしながら暫く覗き込んでいました。そこに創る 『 HUA 』 には出来上がったあかつきには是非とも訪れてみたい。
人の 感性・琴線 にふれる オリジナルな 『 楽器 』 をもて、
四季の移ろいを宿す 「 日本を耕し続ける 」
Posted by masuzawa05 at
10:17
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