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増澤信一郎の心模様 石井建築事務所ブログ

2008年08月25日

作家の感性に学ぶ・その1

 私(増澤)、「 ピッタシでないとか、なんかいつもちょっと違う 」と思うことがある。そんなわけで、モヤモヤしたわだかまりがとけて、ピッタシの言葉・生き方に出会えたときの嬉しさといったらない。

● 好きなことを勉強したい: 東 理夫(ひがし・みちお)

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 子供の頃、アフリカに行きたかった。そこに住む人たちに憧れた。彼ら、狩猟の民たちは、実は仕事と遊びを区別せずに生きていると思われたからだ。生きるのに必要な食を得るために動物を狩ることは、彼らにとって仕事であり、ゲームであり、スリルを得る生理的な充足や技術を向上させる学びの場でもある。彼らにとって生きることは、そのまま遊ぶことではなかろうか。
 ぼくが長い間抱いているささやかな疑問の一つは、「なぜアメリカ料理はまずいのか」ということだった。正直な話、ぼく自身はまずいとは少しも思っていない。けれど、多くの人はアメリカ料理はまずいと言う。なぜそういう烙印を押されているのかを知りたかった。アメリカ人という人種はいない。世界中からやってきた移民によってあの国は成り立っている。その中には、食べるために生きている、といわれるラテン系のフランス人やイタリア人、スペイン人、あるいは食に貪欲な中国人、食に繊細な日本人なんかもいるのに、彼らの影響はほとんどあらわれていない。なぜなのだろうか。
 彼らは、いつの間にかアメリカ人になってしまう、というのがその答えだ。自分の国を捨て、新しい国の人間になってしまう。それがなぜか、いつそうなるのか今ここでは書くスペースが無い。そしてアメリカ人は、食べ物がおいしいよりも、いつもどこでも同じものが、誰にでも食べられることを根ざしているのだということもわかった。旅をし、図書館や博物館を訪ね、本を読み、人に聞き・・・・・ようやく 「 アメリカの食べ物はなぜまずいのか 」 が、今わかりつつある。(注:このことについての著作があります)
 でもまだ他にもたくさんの疑問がある。それを解き明かすための「勉強」、それがぼくのより良い時間を過ごすための方法である。これは実に楽しい。自分が変わっていくことがよくわかり、それがまた楽しいのである。   雑誌 『 GRAN 』 より抜粋。


● 本質は詩人だった:  梯 久美子(かけはし・くみこ)

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 童話や絵本作家の 東 君平さんについてこう述べています。

 いつも小さなノートをポケットに入れていて 「 空から落ちてきた言葉を書き留めるんだ 」 と言っていた。
 一度中を見せてもらったら ‘ 満月は、夜の闇を空に留めておく画鋲です ’とあった。本質は 詩人だった。

 私は二十四歳で出版社を辞め、フリーライターになった。その最後の原稿を受け取っての別れ際、君平さんは 「 筆を汚してはいけませんよ 」 と言った。

 「 お金がなくなったら友達に借金するか、男を騙すかしなさい。おかしなものを書くよりずっといい 」。 その半年後、君平さんは逝った。                
日経 『 交遊録 』より抜粋。

 梯さんには「散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道」と言う名著があります。戦記もんや軍歌が嫌いな私(増澤)ですが、阿川さんの 「井上成美」に次いでこの本はいいと思う。


● 芳醇(ほうじゅん)で透明感をたたえた文章:  須賀 敦子(すが・あつこ)

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 「夕方、窓から外を眺めていると、ふいに霧が立ちこめてくることがあった。あっという間に、窓から五メートルと離れていないプラタナスの並木の、まず最初に梢が見えなくなり、ついには太い幹までが、濃い霧の中に消えてしまう」―『 ミラノ霧の風景 』より。 こんな魅力的な文章が読者を魅了した。
                                     
須賀さんの知的でゴシック建築のように深い精神世界の背後にはカトリックの教育があった。聖心女子大の第一回卒業生で同期生には国連難民高等弁務官として活躍した緒方貞子さんがいた。六歳から大学卒業まで修道会「聖心会」の教育を受け、十六歳からは修道会の寄宿学校で暮らした。九四年に記者のインタビューこう語っていた。「寄宿生活はすべて英語。シスターは厳格で日本的な甘えで行動するとしかられた。そのころから自分の中に日本と西洋が半分ずつあるような気がしていた」と述べています。没後十年になります。

「 きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする 」―『 ユルスナールの靴 』 こうした心にしみる言葉が、読む人に慰めと歓びを与えているのだろう。     日経 『 文化 』より抜粋。



私(増澤)きりりとした思索と的確な表現をもて、 空間に挑む! 少しはあやかりたい。
  

Posted by masuzawa05 at 09:38Comments(0)

2008年08月17日

考えるヒント・その1(格差社会・働き方・教育・老い)

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塩野さんはこう述べています

●格差社会について;

 「 本当に日本は、今初めて格差社会になったのだろうか 」

でも、私は、こう考えてしまう。
「 日本は昔から格差社会だったのではないか 」

古今東西の別なく、人間社会があるところすべてに格差は存在したのです。格差のない社会という発想は、幻想にすぎない。戦後の日本をみても、大企業のサラリーマンと中小企業の労働者との間では所得格差があったし、組織に属す人と私のようなフリーランスの間には、社会的な格差があったのです。それなのにこの「 格差 」は戦後60年近くも問題にされてこなかった。なぜ?

 日本社会特有の 『 緩和剤 』 ともいうべきものが この格差を覆ってきたからではないかと思う。

 たとえば、西欧社会では権威と権力は同一人物に集中していることが多いいけれど、日本ではそうではない伝統が支配的でした。権威を担うのは天皇を筆頭とする皇室であり、権力を担うのは時の幕府であったり、内閣総理大臣なのだから。
 また西欧では大学教授と小学校教諭では、大学教授のほうが圧倒的に地位が高いのですが、日本では共に「 先生 」と呼ばれ、たとえ大臣でも息子の教師には、「 先生 」と呼んで敬意を払います。
 
これは欧米社会では感じることのない、日本特有の文化的「 緩和剤 」ではないでしょうか。

 もし現在の日本人が格差を実感し始めたのならば、この緩和剤が失われたことが最大の原因ではないか。その結果、いままではオブラートに包まれていて輪郭がはっきりとは見えなかったものが、明確に見えてしまうようになったのです。

 ローマ社会はピラミッド型の階級社会でしたが、ただ「ローマ市民」と「非ローマ市民」
の間も固定化していず、社会全体に流動性が機能していて、努力と能力次第でチャンスをつかむことが出来たのです。ローマに征服された属州出身者にも、「ローマ市民」への道は開かれていたのだから。
 
 この種の「 敗者復活システム 」が機能している社会こそ、健全な社会だと思う。

 今の日本が格差社会に脅えているのは、格差に脅えているのではなくて、格差が固定化するのではないかという不安によるのではないでしょうか。


●働き方について;

 いつの世も、失業問題は国家を揺るがせかねない大問題でした。

 『 ローマ人の物語 』を書いていて「 失業とは何を意味するのか 」を考えあぐねていたとき、英国人作家のケン・フォレットがテレビで発言しているのを偶然耳にしたんですね、彼はこういったんです。
 「 失業とは、生活の手段を奪われるだけではない。その対策ならば、福祉政策でカバーできる。最大の問題は、仕事を失うことによって、人間が自分に自信を築くチャンスまで奪われてしまうことだ 」。
 数字を操るだけの経済学者では見落としがちな、人間の本質をついた一言でした。

沈滞している労働力を、流動化するように雇用の形態を中身・給料・時間の面からバランスをとることではないでしょうか。


●教育について;

 フリーター、ニート 日本の若者には覇気、元気がない と言われています。中でも若い世代にその傾向が顕著だとすれば、その原因は「 子どもの自主性、個性を尊重する教育 」という時代の風潮にあったのではないでしょうか。

 個性尊重は結構なことですが、ただしそれも、理(ことわり)を理解できる年頃になってからの話です。それまでは問答無用の躾が必要です。私も息子を育てていた時期は、平手打ちをくわせたこともしばしばでした。子どもには理を踏んでの説明は必要ではない。善し悪しの判断を、理屈ではなく丸ごと身につける時期が、子どもには絶対必要です。

 学校教育が独立してあるわけではなく、根っこには家庭教育があるのです。それは二千年前から変わりませんよ。「 ローマ女の鑑 」と謳われたグラックス兄弟の母コルネリアは「 子は母の胎内で育つだけではなく、母親のとりしきる食卓の会話でも育つ 」と言っています。

 団塊の世代、彼らが教育を間違えたからではないか。

 では、この若者たちはどうすればいいのか。
「 20代までは何だってやれる。だから 迷え 」と私なら、こうアドバイスします。
 迷うことが出来るのは、若さの特権です。ただし迷うにしても、何でも経験しながら迷うことです。まだ若いのだからチャンスはいくらでもある。


●老い について;

 老いるとは、端的に言えば、自分が自信を持って出来ること選んでいき、それ以外のことは潔く捨てていく過程なのです。

 というわけで、私だったら、「 老い 」を扱った記事や書物などは読みませんね。わかりきった事象をまじめな風を装って論じているものを読む暇からしてもったいないから。

 他の人の老いまで考える精神的余裕があるくらいなら、六十歳までの人生で培った自分の個性に磨きをかける時間を送るべきです。それがボランティアでもいいし、趣味でもいい。仕事でもかまわない。

 老いなんて考えずに、それまで生きてきた自分に自信をもって、やりたいことをやればいい。
             以上 塩野七生 文藝春秋記事より抜粋


ここで私(増澤)の意見:

◎ 格差社会: 野党、マスコミ、教育関係者の中に、ことばじりを捉え、それをいたずらに強調するきらいがあると思うのですが。いかがでしょうか。

◎ 働き方: 30年前北欧を旅したとき、失業者のためにフルタイム働かずに、タイムシェアリングして仕事の機会を分かち合うという話を現地で聞いたことがあります。昼日中、繁華街で酒を飲みながら、グタグタ遊んでいる若者たちを見て、高福祉社会の負の一端を見た思いがしました。

◎ 教育: 日教組のやり方に大きな問題があった。それを黙認してきた国民にもっと大きな責任がある。

◎ 老い: 自分自身に自信がないので、書物ばかりあさります。我を通さず、得手を伸ばして、不得手を忘れることも必要かもしれませんね。



  この文章を読んでなにやら 深く考え始めました。

             
  
Posted by masuzawa05 at 17:18Comments(0)

2008年08月11日

マイウォーキング・その3

 いちばんよく歩く宇佐美の山道の一つです。

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 山田から桑原と言う集落に向かう切り通しの道です。

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 母の実家の持っている平戸のミカン畑で、そこからの宇佐美湾の景色です。

昔、この地域の集落の人達が博打に興じ、ツケの払いに困り曽祖父になんとか買ってもらえないかと持ちかけられ、手に入れた土地と聞いています。購入については感謝されこそすれ・・・・・?! そのせいか、私がこの近くのミカン畑を宅地として農転にかけ購入したとき、農地委員の人に印鑑を貰いに行くと、 「 どんどん買ってやってくんなー 」と言われて・・・・・ ? という思いをしたことがありますが、今思えば一族の末裔としての、過去の因縁でしょうか。

 私、大学生時代の夏休み、今は亡き祖母から、畑の草取りをアルバイトで請け負ったなつかしのミカン園で1000坪位はあるでしょうか、いくら貰ったかは定かでありませんが、汗だくで一週間ほどかかったように記憶しています。                          
「 なせばなる、なさねばならぬなにごとも、ならぬはひとの、なさぬなりけり 」の祖母ですから、タダではお小遣いはくれません。当時ですから草刈機なんぞは無く、もちろん鎌と手で抜きました。

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 桑原の洞から阿原田に抜ける道です。

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 郷土が生んだ故木部佳昭代議士(河野一郎の秘書から河野派として建設大臣を歴任する)の揮毫した石碑です。

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 山の先端に向かう農道です。

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 農道を下ると海が見えてきます。

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 左に見えるのが水道山の貯水池です。ここの芝生の土手に腰掛けて携帯で貴重な話をした思い出があります。 

それは:
 バブルが弾けて、3年程会社は赤字が続き、会社を閉鎖しようかと思っていたころ、仙台に支店のある大手ゼネコンの部長さんから、有名な建築家の設計による山形の病院施設の施工図を描いてくれないかとの電話でした。( 複雑な三次元的傾斜のある建物で難しかったのですがCADゆえに描けたのかも知れません ) 喉から手が出るほど欲しかった仕事と、お金ですので 、感謝、感謝 ! の出来事で、確か思っていた額の倍程も戴きました。本当に嬉しかった。

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 宇佐美駅を見下ろすポイントです。

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阿原田の集落に下りてすぐ見えてくる、シルバーに塗られた有名な「 龍の城 」です。建築雑誌にも載りました。

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 阿原田から峰の集落へ抜ける道です。景色のいい芝の平地を見ると、つい自分の土地のつもりで日向きを考慮しながら、青空のキャンバスに、先ず居間の位置を考えながら家を描きます。

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 峰に下りたら、そのまま海に一直線。

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 疲れ気味の私の足と、砂浜、磯の景色です。

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 この東屋で夜のウォーキングのとき、ベンチを使ってストレッチをします。

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 子どもの頃住んでいた家の裏手の小路に有った、苔むした河原の玉石積みの護岸が健在で、この上でよく遊びました。木にのして(登って)採って貪ったナツメの実の枝ぶりも昔のままです。もっと木が大きかったような気がしますが・・・・? 体が小さかったからでしょうか。

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その家は森野さんという郵便局長さんちで、同級生の直子ちゃんと言う女の子がいました。多摩美に行ったと聞いていますが、その後はわかりません。六十年程前の両家のセピア色のポートレートです。今年八十八になる私の母が若いのにビックリ。

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 初詣に必ず行く神社でお天神さんと呼んでいる 比波預天神社(ひはよ・てんじんしゃ)です。時々はここで手を合わせます。子どもの頃、たしかスズメ蜂に刺されて、ひどい目に遭いました。

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 浄土宗 「 回向山(えこうざん) 浄信寺 」 の入り口です、11年前に交通事故で死んだ父が眠っています。

以上、いろいろな思いが胸をよぎる、9500歩、6.5キロ弱、1時間45分の行程でした。
  
Posted by masuzawa05 at 09:42Comments(0)

2008年08月04日

『自由学園・明日(みょうにち)館』に行ってきました

 映画監督 羽仁進さんのお祖父さん、お祖母さんでジャーナリスト、羽仁吉一・もと子夫妻によって大正10年(1921)4月5日に創立、池袋にあります。        
設計はかの有名なフランク・ロイド・ライトです。

* (羽仁進さんのお父さんは我々70年安保世代のバイブルである 「都市の論理」を書いた羽仁五郎さんです。)


○ 創立者お二人の写真です。

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 この建物は、1923年の関東大震災、第二次世界大戦による戦災からも免れ、維持されてきましたが、老朽化が激しく、その為1997年の重要文化財指定を機に、1999年から3年間かけて、保存修理工事が行われました。

● 全体模型です

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● 正面外観です

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● 正面窓の内観です

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● 窓格子のデザイン

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● 椅子(スパークリングワインは私の飲んだもの)

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● 食堂天井のディテール

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 今回は建築家フランク・ロイド・ライトのディテールの解説は皆さんご存知なので省きます。                                               
空間体験としては、スケール感が非常にヒューマンで建物を低く抑えた感じと、空間(部屋と部屋)の繋がりがうねるようにスキップして繋がり、目を転じる毎にあちらこちらに意匠格子の窓がいいバランスで配されて、赤いボールランプが灯り、グッド・センス・オブ・スペースでした。
私事ですが以前設計をした 『 茶寮 宗園 』 のロビーに赤茶革のライトデザインの椅子を置いたのが、懐かしい思い出です。一見蟹のような本物の椅子は17年後の今もバリバリの現役で、低く睨みを効かせています。

ものの本によると、「中央棟を中心に、左右に教室をシンメトリーに配し、ライトの第一黄金期の作風に見られる、高さを抑えた、地を這うような佇まいを特徴としています。プレイリースタイル(草原様式)と呼ばれるそれは、彼の出身地・ウィスコンシンの大草原から着想を得たもので、池袋の界隈に開放的な空間を演出しています。」とあります。


たしかに其処だけ日の光が水平に拡がって、投網(とあみ)のようにフワッと降り下りていました。

地を這うような謙虚な佇まいは日本家屋の特徴で、それ故に親しみがもてるのかもしれません。小屋裏を浅く、無駄なく納めるテクニックは、吉村さんや日本の建築家に多大な影響を与えたと思われます。                                 
願うらくは、シンメトリーを廃し、イレギュラーな増殖するアミィーバーのような配置(桂離宮のように)をしたなら、もっと日本人の心に食い込んだでしょうが、それが惜しい。でも学校だからいいか。



 以前からライトの造る邸宅は小規模な日本のホテル・旅館に応用出来るなと思っていたので、わが意を得たりと思う見学でした。
  
Posted by masuzawa05 at 08:47Comments(0)
心を形に表す
建築空間にはいろいろの「想い」がある。
具体的な平面から容積のある空間へと立ち上げるさまざまな作業の中で、オーナーの使い勝手や心情が、私の心を通して色づいていく。
思い入れ豊かに熟成された建築空間には、オリジナルでしなやかな空気が息づき始める。
豊潤で美しく、時に凛々しい。
機能的であることは大切なことですが、美的な創意工夫も大切な要素です。
そう思いながら設計しています。


増澤信一郎
S22年10月11日生まれ
芝浦工業大学建築工学科卒業
静岡県伊東市宇佐美在住
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