
2012年01月24日
今朝の食卓にて
以前母たちが泊まった、箱根のプリンスホテル系の旅館で、当時そこそこの値段で泊まったものの 「 朝の見送りもなく、失礼しちゃうね 」 という話しがあったことを思い出し、年寄りの風体を見るのかしらねえ、それにしても、ひところよりこのホテルも元気がないね・・・、ワンマンなオーナーが欠けるとダメなのかしらと言う様な話になった。
私がたしかこんな歌が有った 「 この世をば わがよとぞ思う もちづきの・・・ 」云々、然しながら名前が出てこない。お互いに 「 誰だっけ・・・、誰だっけ・・・ 」
菅原道真と言い家内に笑われ、平清盛と言っては明らかに違うと一蹴され、家内の言うには藤原の、藤原の・・・、 誰だっけ・・・。

『 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(「この世は 自分(道長)のためにあるものだ だから満月が欠けることもない」という意味)を詠んだ(『小右記』、原文漢文)。実資は丁重に返歌を断り、代わりに一同が和してこの「名歌」を詠ずることを提案し、公卿一同が繰り返し何度も詠った。この歌は道長の日記『御堂関白記』の、この宴会についての記述の中には記されていないが、道長に批判的な実資の日記に書き残されて後世に伝えられることになった 』
● この歌文面に無い、満月もやがては欠けてくると言う、驕りを戒める言葉と解釈していたのだが・・・たぶんそれでいいと思っている。
さて、そのことは後世の人がいろいろ言うことであって、明らかに悦に入っている満面の笑みだけで充分に気持ちがいい。
的を外した些細な気遣いばかりの小人が多くて、驕り昂ぶる豪胆さもたまにはいいもんだと思ったりもする。
● 同じ「 この世をば・・・」 でも、こんなのもある。

○ 十返舎一九は遺言として 「 死んでも湯潅(湯洗いして身を清めること)なんていらない。死んだら火葬にしてくれ 」 と残したそうで、遺言どうり火葬にされましたが、一九は花火を抱えていたらしく、火葬になった時に棺から花火が打ちあがって皆を仰天させた、と伝えられています。
● 全てにわたり洒落っ気があっていい。気に入っている。
Posted by masuzawa05 at
12:57
│Comments(0)
2012年01月16日
ちょっといい話・その11
知的余生の方法 ( 同名の新潮新書より )

知的に生きることは
人生を何倍にも充実させる。
◎ 知的余生のための肉体について:
私は、九十五歳まで生きようとこれまで提唱してきた。この提案は、知的生活を送るためには何といっても 「 フィジカル・ベーシス 」 ( 肉体的基盤 ) が必要だと思うからだ。 * 肉体的基盤=physical basis
どんなに意気込んでも、寝込んでしまっては何もできはしない。若い頃なら病床の生活が知的にプラスになりうる。しかし老いてからは若いときの何倍も “ フィジカル・ベーシス ” が重要になる。イギリス人で世界的なベストセラーを著した美術評論家のP・G・ハマトンもその名著 「 知的生活 」 の中で指摘している。肉体的健康が “ 知的生活 ” の基礎になる、と。 “ 知的余生 ” にとってはさらに重要なものになるのだ。
○ 白川静先生の 「 脳健康法 」 :
漢学者の先生の知的興味の広さと深さに感心したことがある。以前対談させていただいたとき、九十五歳を過ぎたとは思えないほどお元気で、私が 「 たまには温泉や旅行などに出て気晴らしでもされるのですか 」 と尋ねると、 「 そういうことをやると、かえって続きません 」 と答えられた。そして、毎日規則正しく仕事をし、規則正しく散歩することが、 「 健康の秘訣 」 だとおっしゃった。
○ 中川秀恭先生の 「 宗教と余生 」 :
プロテスタント教会の代表的な学者だった先生は 「 九十五歳を過ぎた頃から、死して神の御許へ行くなどということすら考えなくなった 」 と百歳のときにおっしゃった。
九十五歳にもなると世の中に対する未練はもちろん、神や仏にすがろうという望みも、また死に対する恐怖すらなくなった境地に至るものらしい。これは、禅僧が厳しい修行をつんでやっとたどりつく境地と同じだろう。これほどの長寿というものは、 「 悟り 」の境地に達しうるものなのだ、と感心した。
● 私(増澤)、八十五までがせいぜいだろうと思っていたが、九十五歳ならまだ30年もある。ならば、気持ちだけでもゆとりを持って生きられる。
◎ 財産の考え方:
英語の諺に 「 Money is a good servant, but a bad master 」 というのがある。 「 金は良き召し使い、悪しき主人 」 お金や財産は、賢明に使えば実に良いものだが、お金に使われたらひどいことになるというのだ。
● なんとか製紙の馬鹿息子は一体なんなんだ。単なる馬鹿なのか!? そうだろう!
財産、つまり富のことだが、これは英語ではgoodの複数、goodsで表現する。ドイツ語でも同じで、グート( Gut ) の複数ギュ―ター( Guter )という。何を意味しているかといえば一目瞭然、財産と言うものは、もともと 「 良いもの 」 だということだ。
だから、常に使ってやればいい。しかも賢明なやり方で。賢明に使えば使うほど、お金はいい召使になる。
● お金の無い人はどうするんだという話になるが、お金が少ない人は少ないなりに工夫・節約すればいい。工夫する人にお金は巡ってくる。
それでも巡ってこない人はどうすればいいか・・・私にもわからないけど・・・・、ゼロということはないだろう。
ひょっとして金で買う “ もの ” が巡ってくるかもしれない。
泰然自若していれば、そのうち巡ってくるだろう。
◎ 読書家は長寿が多い:
「 仁者寿 」 と言う言葉が論語にある。この場合の 「 寿 」 と言う字は、慣例的に 「 いのちながし 」 と訓ずることになっている。 「 仁者は命長し 」 と言う言葉はなんとも素晴らしい響きがする。
「 脳の中ではさまざまなホルモンが作られている。このホルモンは脳のためにだけあるのではなく、脳が支配しているさまざまな器官に関係している。それで脳を働かせることは全身の健康に密接な関係がある 」 という学者の研究がある。ありがたい話である。
● 死んだ父・増澤三郎は、私が学生時代 「 本を買う 」 と言えば理由を問わずお金を出してくれた。
その内のほとんどが飲み代に消えたのだが、飲み代に消えた分だけ寿命は短くなるのだろうか・・・・であれば、罰が当たったということになるのだろう。
反面、酒場の人情の機微に触れることができた分だけ心豊かに生きてこれた、と自分勝手に納得している。
◎ 知を求めて生きる:
さて、年をとったら何事につけ頑張らないほうがいい、と言う人がいる。年をとってから何も求めずに生きるという生き方は、そう自分で決めて生きるのなら、それはそれでかまわないとおもうが、果たしてそうだろうか。
英文学の世界で先輩に当たる外山滋比古先生は、好きな俳句として滝瓢水の
「 浜までは 海女も蓑着る 時雨かな 」 を挙げておられるが、私も深く共感している。
この 「 海女 」 を自分の姿に見立てると、 「 浜 」 は死期になる。どうせ海に入るのだから、時雨だろうが濡れることなど気にしないで浜に向かえばいいのに、この海女は蓑を着るのだ。この 「 蓑 」 は私にとっては読書に当たる。 「 どうせ死ぬのだから何もしない 」 というのは、 「 どうせまた腹が減るのだから飯を食わない 」 に通ずる考え方ではないだろうか。
● 私(増澤)、おこがましくも還暦を過ぎて、 「 知的に恥をかく 」 生活をしようと思っています。 知らないこと、思慮に欠くことが、あまりにも多いからだ。
それでは、どう恥をかいたらいいのか、
指針とすべく、渡部さんが三十数年前に書かれた 「 知的生活の方法 」 を続いて読み始めました。
好きな言葉があります Way up there ( そこに至る道 )
Way : 道 、 方法 、 生き方 ・・・・・ 「 そこ 」 とは。
Posted by masuzawa05 at
18:28
│Comments(0)
2012年01月06日
2012年の 春一番
好景気の竜巻が吹き昇るよう 今年も元気に働きます

●スタイリッシュでわかり易い 『 宿 』
●刺激的で豊かな 『 住まい 』
●商売繁盛の 『 お店 』
●採算性が良く使い易い 『 公共建築 』
●機能的で、美しく、後世に残る、環境の一員としての 『 空間芸術 』
目指します! ご支援よろしくお願いいたします。

●スタイリッシュでわかり易い 『 宿 』
●刺激的で豊かな 『 住まい 』
●商売繁盛の 『 お店 』
●採算性が良く使い易い 『 公共建築 』
●機能的で、美しく、後世に残る、環境の一員としての 『 空間芸術 』
目指します! ご支援よろしくお願いいたします。
Posted by masuzawa05 at
09:06
│Comments(0)
2011年12月26日
ゴッホ展
ゴーギャンを取り上げたら Vincent Van Gogh を語らないわけにはいかない。

早速、新美術館に出掛けた

私(増澤)、高校時代美術部で油絵を描いていた。友人が描いた向日葵の絵を見てこいつには絶対かなわないと思ったことがある。今思えばあの色遣い、そして絵のタッチはゴッホを引きずっていた。
個人的には黄色が好きで、特にゴッホのヌクッとしたグリーンを含んだ黄色はたまらなく好きだ。
○ 曇り空の下の積み藁:
自然は重要な霊感と慰めの源だった。彼は荒れ狂う空の下の広大な小麦畑を3点描いた。そしてその後間もなく、この小麦の積みわらを描いた風景を戸外で製作したに違いない。部分的に曇り空を映している草地の水溜りから判断して雨模様の日であろう。

○ ヒバリの飛び立つ麦畑:
思わず引き込まれてしまうような動きの感覚である。鑑賞者は、まるで刈り取りの終わった畑の前に立っているかのようで、その背後では麦の穂が風に揺れている。

○ マルメロ、レモン、梨、葡萄:
ゴーギャンをして 「 黄色い静物画 」 と呼ばせた。

○ アルルの寝室:
今度もまたごく単純に自分の寝室を描いたものだが、色彩が大きな役割を成し、要するにこの絵を見れば、頭なり、あるいはむしろ、想像力が休まらなければならない。

○ ゴーギャンの椅子:
「 今や僕は想像で描き始めている 」 ゴッホはモデルなしで肖像画を描く妙案を思いついた。空っぽのいすは、普段そこに腰掛けている人物を表現できると考えたのである。

○ 種まく人:
ゴッホの眼には、ミレーの <種まく人> は “ 自然 ” 以上に確固とした存在で、ほかの何とも比較することが出来ない作例であった。
「 あそこにあるのはただの種まきではなくて、むしろ魂なのだ 」 大胆な構図は日本の版画からヒントを得ている。

○ 夕暮れの松ノ木

○ アイリス
背景の黄色と花瓶の置かれた台の黄土色に対して、紫のアイリスがまばゆく際立っている。

● 彼の経歴についていろいろ言われている。
ミレーに心酔していたとか、基本的な絵の勉強をしていないまったくの独学であるとか云々、私(増澤)、そんなことはどうでもいいじゃないかと思っている。テクニックを教わらずとも心で感じて描けばいいと思っているからで、彼の塗り重ねて見せる色の表情がいい。 そして、黄色がなによりも好きだ。
Posted by masuzawa05 at
16:57
│Comments(0)
2011年12月19日
心に残る建築家の言葉・その31
『 人間は何も創造しない。ただ発見するだけだ 』

◎ ガウディは自らのことばそのままに、神が創造した自然から、形や色、光を見出し、建築に引用した。その多彩さは他に類をみない。
永遠の建築といわれるサグラダ・ファミリア。木漏れ日の差す森 ( 身廊・側廊 )、螺旋状に伸びる巻貝 ( 鐘楼 ) などを連想させる造形は、装飾性を超え、構造や機能の合理的な連鎖でもある。ガウディは自然にひそむ多様な仕組みを読み解き、その神秘性を建築に再構築した。
○ スペイン・バルセロナ 正式には “ サクラダ・ファミリア贖罪聖堂 ”
について

● MY・辞書より: 贖罪 ( しょくざい ) とは
犠牲や代償を捧げることによって罪過をあがなう(つぐなう)こと。特にキリスト教の教義の一つ。自らではあがなうことのできない人間の罪を、神の子であり、人となったキリストが十字架の死によってあがない、神と人との和解を果たしたとする。 和解、赦し (ゆるし )。 ちなみにサクラダ・ファミリアとは聖家族という意。
さしずめ、 「 聖なる家族・赦し導き(ゆるしみちびき)の教会 」 とでも言おうか。
贖罪=Make up for atonement ( 罪滅ぼしをする )
◎ ところで、近頃 「 バイオミミクリー 」 という言葉が話題になっている。バイオは生物、ミミクリーは模倣の意であり、技術開発において生物の能力を模倣するという意味である。 ( 詳細については又後日 )
この建物は植物の構造をミミクリーしている好例であろう。植物的なフレームを現代技術で解析すると、整合するという。

人は野菜のブロッコリー(スティックセニョール)林の中のてんとう虫の様なものだ
○ 自然は建築の技師である
建築の中にひそむ自然や生物
それを読み解くことは
知性と感性の冒険だ
● 私(増澤)思いますに
自然の中の一生物としての人間の考える諸々も、自然の側から見れば
“ はなから、すべて お見通し ” なのだ。
◎ サグラダファミリア彫刻家 外尾悦郎氏は 「 ガウディ 」 論の中で実体験のエピソードとしてガウディのすごさをこう述べています:
本当のガウディの才能、天才性というのは、何も勉強しなかった、数学も勉強しなかった、文字も書けない職人たちに、いくらでもできるような方法を考えた。つまり常に職人たちのことを考えていた。100年以上経ったあとに来た外国人の私にも、ちょっと調べれば分かるように造っているのです。これは見事です・・・・・。
本当のデザインとは新しい、何もないものを造るのではない。そこにあるものを観察して、一つに凝縮すること。それがデザインではないかと私は思います。
構造について言えば、全て直線なんです。ガウディは直線を使っていないと思われていますが、ほとんど全てが直線でデザインされたすべての曲面なのです。これは素晴らしいことです。人と人が図面の上で話し合う。言葉で話し合う。 「 これをまっすぐ行けば分かるよ 」 と言えば、道は分かります。 「 これをぐるっと回ってね 」 なんて言われると、どうやって曲がっていいか分からない。直線というのは人と人をつなぎます。直線で作られたすべての曲面で造られております。
● 『 優しさは易しさ 』 といつか自分に問いかけたことを思い出しています。
易しいという優しさで建物を作れば、その中の生活を通して心が豊かに羽ばたきます。
文化勲章受章者で服飾デザイナー ISSEY MIYAKE さんも確か同じようなことを仰っていたように思います ・・・ 『 着易さは優しさ 』
Posted by masuzawa05 at
10:39
│Comments(0)
2011年12月12日
貧しい人は素晴らしい人たちです (マザー・テレサ)
2010年、生誕100年を迎えたマザー・テレサ。
クリスマスを前にして、今そのとき買った本を読み返している。
○ 「 私たちの働きは
大海の一滴にすぎないかもしれません
でも、大きな海も、一滴の水なしには
大海にならないと思うのです 」

◎ マザー・テレサ 永遠の愛
○ 人間にとって最大の不幸は必要とされないこと:
瀕死の路上生活者が毎日運び込まれ、シスターたちが一人ずつ面倒を見る。ほどなく彼らは亡くなっていく。 「 無駄ではないか 」 との思いがよぎった。
だがマザーは言う。 「 人間にとって最大の不幸は必要とされないこと。あなたは必要な人であり、生きてきてよかったと思ってほしい。それを伝えたいのだ 」
● 老いて必要とされなくなった人、事あるごとに早く居なくなって欲しいと思われている人、介護や尻の始末をしてもらわなければ生活できない人。
貴方は身内ではなく他人であるその人に、具体的な手を差し伸べることが出来るでしょうか。
意識では出来ても具体的にはなかなか出来ない・・・介護が必要なその人が他人ではなく貴方自身であったらどうだろう、受ける側としてどう思うだろうか。
具体的な日々の生活のサポートが大切である。 他人にそれが出来る人が身内にもいる。いたわりの心を育てられたから出来るのでしょう。
私、自分自身に問いかけるのだが、せめてサポートする人を気持ちで支えることぐらいしか出来ない。
○ 家庭の中で育つ愛:
「 愛とは何でしょうか? 」 と生前のマザーに尋ねたことがある。 「 愛とはささげること。愛は家庭の中で育ちます。家庭で愛を実践してください 」 と語ってくれた。
またマザーはシスターたちをよく笑わせるウイットに富んだ女性だった。
( 千葉茂樹さんの撮影取材30年より抜粋 )
● 表題に戻ってマザーの言葉を噛みしめています。私(増澤)思いますに、
極貧にあえぎ捨てられた人たちに愛情をそそぐことによって、その人たちは 「 生きていてよかった 」 と心から思い、お互いに温かな気持ちが芽生え、そしてやさしさの輪が拡がる世の中。
短絡した独りよがりな考えかもしれないが、そんな人としての思いやりに気づかせてくれたことへの感謝・・・と理解した。
“ 貧しい人は素晴らしい人たちである ”
差別と偏見に満ちた我が心を糺し、本当になるほどと思える日を信じて。
Posted by masuzawa05 at
10:09
│Comments(0)
2011年12月05日
ゴーギャン展
◎ 我々は何処から来たのか
我々は何者か
我々は何処に行くのか


◎ 芸術とは一つの抽象なのだ。
自然を前に夢見つつ、自然の中から抽象を取り出すのだ。

● 私(増澤)今までは南国タヒチのイメージでなんとなく明るいイメージでいたのだが、現実はなんとも暗い色調の絵、絵、絵だ。それ故に象徴的に表れる ‘ 朱色 ’ は心の血の叫び、象徴的な色なのかもしれない。
そして唯一の白は、彼が死の直前に描いた白馬と白い服の女が居る景色、遠くに墓地の白い十字架。何かを暗示する白・・・・。暗い粘着的な性格が猟奇的でそれゆえに幼子を含めた女性遍歴を繰り返させたのか・・・・ ポール・ゴーギャン。
◎ 私の作りたいのはシンプルな芸術・・・・・
シンプルな自然の中で、多くの人たちと接し、自分を鍛えなおすのだ、その為未開の人たちと接するのだ。と言って南国に旅立つ。
○ 海辺に立つブルターニュの少女たち:後にタヒチの少女達につながる片鱗が見られる。

○ パレットをもつ自画像

○ かぐわしき大地

○ 我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか

◎ 生〜死 のドラマが描かれている
『 我々はどこにいくのか? 』 :一人の老婆の死の際に、一羽の異様な、愚かしい鳥が結論を下す。
『 我々は何者なのか? 』 :日々の生活
本能的な人間は、これらすべてが一体何を意味するのか
を自問する。
『 我々はどこから来たのか? 』 :泉
子供
共同生活
○ 女性と白馬:やけに色調が明るい死に際の作品。

● 付属している石鍋シェフのレストラン・クイーンアリスにて、タヒチに思いを馳せて作ったというランチセットを食べる。美術館のレストランでよくやる手だが、イベントに応じた料理、それはそれで楽しめる。

イタリア産の水(サンベネデット)

前菜等: パパイヤと小海老のカクテル、ジンジャースープ
(食い気に走っちゃって、気がついたら海老は食べかけ写真に・・・ごめんなさい)

タヒチ風ローストポーク ( ハム風だが、この豚は旨かった )

デザート:南国フルーツ、ココナッツアイス添え

ランチセット 2,500円+白ワイン350円 締めて2,850円でした。
● 今回は、私(増澤)の美術展に於ける風変わり人間観察などを少々。
いろんな人がいる:
きちっとしたペンシルストライプのダークスーツに黒のテンガロンハット(?)を被った七十がらみの紳士。
デザインされたずたずたのジーンズに総模様のTシャツを着て、ヘンテコリンな帽子を被った五十台の男。
黒ずくめの上下で長い黒髪、女のような男の奴。
ロングスカートに長い黒髪、背が高い双子のような美人姉妹、一人はお腹が大きく、特筆すべきは化粧の程がタヒチの娘風、目元は隈取ってあきらかな化粧がされているが、それなりにきれい。
ものすごく派手な上半身と化粧、下半身はボンレスハム状態の黒タイツのお婆さん。
旦那がおとなしいのを幸いに、なにやら元気に指図する。旦那は寡黙にハイセンスなお洒落好好爺。二人とも背が高く年齢八十台か海外暮らしが長そうな日本人。
あまりにも目立つ好対象なので、写真に撮ろうとして案内のお姉さんに叱られた。エレヴェーターホールだからいいと思ったのに、ダメのようだ。この欄にイラストを載せたかったのに。
私自身、人ごみに自分を置いて客観視すれば、多分、初老のチョイ悪オヤジ風。
う〜ん 其れなりにいいかんじにちがいない。・・・・・満足できる午後だった。
Posted by masuzawa05 at
10:52
│Comments(0)
2011年11月28日
CUPNOODLES MUSEUM
佐藤可士和 総合プロデュースのカップヌードルミュージアムに行ってきました。サブタイトル?として、 『 安藤百福発明記念館 』 といいます。
本当はこちらがメインなんですが・・・。
百福さんのことを忘れている方が多いのではないでしょうか

外観です

◎ クリエイティブシンキング ボックス・安藤百福の6つのキーワード。

1 まだ無いものを見つける
2 なんでもヒントにする
3 アイデアを育てる
4 タテ・ヨコ・ナナメから見る
5 常識にとらわれない
6 あきらめない
○ エントランス回りです。




● 正面 大階段の下はトイレとロッカールームになっています。近くに大桟橋があるので、圧倒的な階段を見て 『 大 』 その辺がデザインモチーフかなどと、あらぬ疑いをかけてしまいました。
○ 歴代のカップヌードル戦士たちです。



○ ここで映像を見て百福さんの足跡を辿ります。

○ 百福さんの実験小屋が原寸大で飾られています。

○ THINKING BOX です。

○ 百福ヒストリー ( 名言集 ): 出来ないことはない とか 味に国境はないとか色々な含蓄のある言葉が ‘ イラスチック ’ に飾られています。

○ 以下、名言集です。


















○ 世界の偉人と黄金の百福さんです


○どうもここが一番の目玉スポットのようです。マイカップラーメンが作れます。


● 学生たちが赤い紐の付いた 透明巾着袋 に入ったMYカップヌードルをニコニコ顔で携えている。学生・子供・おばさんたちなら判るが、おじさんたちの場合はどうなんだ、集合時間に遅れてまでも・・・オジサンやってました。
○ いろいろな国の麺 ( ベトナムのフォーとか ) が食べれます。

● ここだけインテリアの色彩感覚が違いますが、元々麺はこういう下町的なざわざわした中で食べられてきたので、泥臭くという感じですが、ちょっと違和感があり、もう一工夫欲しいと思いました。 いずれにしても赤と白の世界は心がウキウキします。
● キューブな外観とインテリアは、床の木と壁の白、赤の展示、まるで紅白幕の地鎮祭、お晴れの世界。シンプルで明るくていい。平日でも混んでいました。
雨にけぶる港未来の大観覧車です。

● ところでこのマーク、デザイン的には “新美術館” と似ていると思いませんか。似て非なるものですが、同一線上と思えるから・・・・・ま、いいか!

● 一番気に入った言葉
『 人類は麺類である! 』 この名言、百福さんなのか佐藤さんなのか?!
● ちなみに入場料は500円。記念すべき ‘ 1 ’ のゾロ目の入場券
本当はこちらがメインなんですが・・・。
百福さんのことを忘れている方が多いのではないでしょうか

外観です

◎ クリエイティブシンキング ボックス・安藤百福の6つのキーワード。

1 まだ無いものを見つける
2 なんでもヒントにする
3 アイデアを育てる
4 タテ・ヨコ・ナナメから見る
5 常識にとらわれない
6 あきらめない
○ エントランス回りです。




● 正面 大階段の下はトイレとロッカールームになっています。近くに大桟橋があるので、圧倒的な階段を見て 『 大 』 その辺がデザインモチーフかなどと、あらぬ疑いをかけてしまいました。
○ 歴代のカップヌードル戦士たちです。



○ ここで映像を見て百福さんの足跡を辿ります。

○ 百福さんの実験小屋が原寸大で飾られています。

○ THINKING BOX です。

○ 百福ヒストリー ( 名言集 ): 出来ないことはない とか 味に国境はないとか色々な含蓄のある言葉が ‘ イラスチック ’ に飾られています。

○ 以下、名言集です。


















○ 世界の偉人と黄金の百福さんです


○どうもここが一番の目玉スポットのようです。マイカップラーメンが作れます。


● 学生たちが赤い紐の付いた 透明巾着袋 に入ったMYカップヌードルをニコニコ顔で携えている。学生・子供・おばさんたちなら判るが、おじさんたちの場合はどうなんだ、集合時間に遅れてまでも・・・オジサンやってました。
○ いろいろな国の麺 ( ベトナムのフォーとか ) が食べれます。

● ここだけインテリアの色彩感覚が違いますが、元々麺はこういう下町的なざわざわした中で食べられてきたので、泥臭くという感じですが、ちょっと違和感があり、もう一工夫欲しいと思いました。 いずれにしても赤と白の世界は心がウキウキします。
● キューブな外観とインテリアは、床の木と壁の白、赤の展示、まるで紅白幕の地鎮祭、お晴れの世界。シンプルで明るくていい。平日でも混んでいました。
雨にけぶる港未来の大観覧車です。

● ところでこのマーク、デザイン的には “新美術館” と似ていると思いませんか。似て非なるものですが、同一線上と思えるから・・・・・ま、いいか!

● 一番気に入った言葉
『 人類は麺類である! 』 この名言、百福さんなのか佐藤さんなのか?!
● ちなみに入場料は500円。記念すべき ‘ 1 ’ のゾロ目の入場券
Posted by masuzawa05 at
10:08
│Comments(0)
2011年11月21日
ちょっといい話・その10

◎ 建築と論語 ( 住まいづくりの要諦 )
○ 住まいをつくるときの心構え:
「 本立ちて道生ず 」
しっかりと両足を地に着けて立つことにより、 ( 良い住まいをつくるための ) 基準とすべきやり方が導かれる。
○ つくり手の価値観:
「 君子は義にさとり、小人は利にさとる 」
立派な人は義 ( 本来なすべきこと ) を大切にすることに喜びを感じる。ちっぽけな人は自分が儲けること、得をすることによろこびを感じる。
○ 住まい手のあり方:
「 己の欲せざるところを人に施すことなかれ 」
自分がされていやなことを、決して人にしてはならない。( 隣地・町並みへの配慮 )
◎ 建築と論語 ( 設計の心構え )
○ 設計者のあり方:
「 名正しからざれば則ち言順(したが)わず。言順わざれば則ち事成らず 」
言っていることが正しくなければ、その内容は発言通りに進まず、言葉の通りに進まなければ何事も成しえない。
○ 設計者の姿勢:
「 いやしくも仁に志せば悪(にく)むこと無し 」
もし仁の心で対応すると、いやなことや酷く苦しいことはない。
○ 設計者の行い:
「 過ちて改めざる、是を過ちという 」
度をこすこと、分をこすことをあらためない、これこそが間違いである。
◎ 建築と論語 ( 作り手が心がけること )
○ 工務店の選び方:
「 其の為すところを視、其の由るところを観、其の安んずるところを察すれば、人いずくんぞかくさんや 」
その人(会社)がやっていることを注意してよくみ、そのよって立つところをみ、その人(会社)がどのようなところでおだやかに落ち着いているかを、隅々まで調べれば、その人(会社)の特徴がわかるものだ。
○ 工務店のあり方:
「 不仁なる者は以って長く楽に処(を)るべからず 」
仁の道にそむく者が、長い間ずっとウキウキする状態にあることはない。
○ 工務店の姿勢:
「 仁者は難(かた)きを先にして、獲(と)ることを後にす 」
仁の道を進むもの(情け深い人)は、憂(うさ)わしいことを一番先にし、利益などの獲得を後にする。
○ 工務店の基本方針:
「 利に放(まか)せて行えば、怨み多し 」
利益を得ることばかりを考えて行動していると、相手を不快にする。ひいては、誰からも相手にされなくなり、自らが損失を被ることになる。
○ 施工の第一:
「 其の事を善くせんと欲すれば、先ず其の器(道具)を利とす 」
良いものをつくろうとするならば、先ずは、それをつくる道具を研ぐなど、しっかり調整しておくことだ。
◎ 建築と論語 ( 建築の技を習う )
○ 修行中の者:
「 学びて思わざれば則ちくらし 」
学んだことに心を細かくくだかなければ、網がかぶせられた状態に似て、それを実際に活用することができない。
○ 年長者の姿勢:
「 学べば則ち固ならず 」
いろいろな学問に触れると、凝り固まった考えがあらたまるものだ。
○ 教えるとき:
「 憤(ふん)せずんば啓(けい)せず。ひせずんば発せず 」
躍起になって奮闘しない限り助けず、いらいらして胸が痛むくらいにならない限り教えず。・・・・中略。飛鳥時代、大陸から寺院建築の技術が入ってきました。しかし大陸の建築では耐震性が足りませんでした。そこで、耐震性を付与するために、斗栱(ときょう)や貫が工夫されました。当時の技術者がまさに昼夜、やっきになって大奮闘、脂汗を流し、悩みぬいて到達した技術です。
● 斗栱(ときょう): 建築物の柱上にあって、軒を支える部分。斗(ます)と肘木(ひじき)を組み合わせて構成する。ますぐみ(出組み)とも言う。
● この写真は、私どもで設計した旅館のロビーラウンジのインテリアに、斗栱と貫を象徴的にデザインし、クラシカルな和を演出した写しです。

◎ 原点への回帰:
「 たとえば山をつくるが如し。未だ一簀(いっき)を成さずして止むは、吾が止むなり 」 *(一簀: もっこの事)
何かを成すのはたとえば山をつくるようなものである。まだ、もっこ一杯の土も盛っていないのに止めてしまうのは、自分がこの世に存在しないのと同じだ。
◎ おわりに:

仏教に、有漏(うろ)と無漏(むろ)言う用語があります。心理学やサイコロ・サイバネティクス ( 心理学と工学を融合させた学問体系 ) などをもとに大まかに捉えると、有漏は顕在意識、無漏は潜在意識ということになります。有漏 ( 煩悩のある状態 )は意識界の7〜8%で、90%は無漏 ( 煩悩のない状態 ) にはもともと純粋な心、仁と徳の心が入っています。
“ 人の生理機能を保つ住宅と論語は、心身を健全にし、幸せをもたらす両輪 ”である。 ( 雑誌アーガス・アイ 樫野紀元氏の建築と論語より抜粋 )
● 私(増澤)ものづくりの心を論語から学ばせてもらいました。・・・・・感謝です。
Posted by masuzawa05 at
09:09
│Comments(0)
2011年11月14日
三人の人類
◎ 「 足跡 」 と書いてアシアトと読めば、廊下の濡れた足型や、犯罪の捜査活動に使う靴跡のように、そのイメージは具体的である。しかしソクセキと読むと、がぜん言葉が深い広がりをもってくる。人生、文化、民族とスケールも大きくなる。
新聞の文化欄、作家・藤原智美さんの人類の足跡についての一文が目に留まった。

○ まさにソクセキといえるアシアトに出会った。360万年前に残された人類の足跡である。人類学者、真家(まいえ)和生さんの研究室には、タンザニア北部のラエトリで発見された、アウストラロピテクス・アスファレンシスという初期人類の足跡が保存されている。レプリカだが、地表からはがしたように精巧にできている。・・・1978年の大発見は人類学の論争に終止符を打った。
この人類にはチンパンジーと同じ大きさの脳しかない。顔かたちは私たちよりもチンパンジーに近い。石器さえ知らない存在ながら、彼らは何と立って歩いていたのだ。
猿よりも脳が大きくなり、それを支えるために立ち上がった動物が人類、という説は完全にくつがえされたのである。
しかしこの足跡は新たな論争を生んでいる。当初、それは大柄な人類とそれより小さな人類、二人の足跡だと見られていた。大柄といっても足跡から推測するに150センチほどで、小柄なほうは120センチ程度である。初期の想像図は先頭を行く男の少し後を赤ん坊を抱えた女が歩いているというものだった。
ところが詳しく観察するとそれは三人であることがわかってきた。大柄なほうの足跡の中に、もう一つの別の小さな足跡が点々と見つかったのだ。こちらは推定140センチほど。前を行くヒトの足跡をなぞりながら歩くという行動は人間的であり、猿ではない。つまり、それぞれ身長の異なる三人がいっしょに歩いていたということになる。
彼らはどんなグループだったのか ?
近くに噴火する火山があった。地面はぬかるんだ火山灰で覆われていた。スコールがやんだばかりで、地表には雨粒跡も残っている。そこに通りがかったのが三人である。彼らが通り過ぎた1,2時間あとに大きな噴火が起こり、新しい灰が彼らの足跡を360万年間保存することになる。
まずこのグループが家族であったろうと推測するのが順当であろう。二足歩行する人類は、骨盤の形が四足歩行の動物より出産に不向きになる。よって他の動物より胎児が未熟なうちに産み落とし、つきっきりで長い間育てなくてはならない。それには育児、狩りという分業が必要で、現代のような核家族に近いものになる。
三人が家族とすれば話は早い。先頭を父親、そして少し後を母親、さらに子どもが父親の足跡をなぞりながら後ろにつく。これでおさまりがつく。
しかし、自然人類学者である真家和生さんは違った見方をする。

○ 真家さん著作の 『 自然人類学入門(ヒトらしさの原点) 』 を藤原流に要約すると・・・・・:
「 同時期にヌーに似た動物の大群が通った足跡も前方に発見されている。父親は狩りが使命だ。先に獲物を追いかけて三人の家族を置いていったのではないか。
すると残されたのは母親と二人の子供。彼らの足跡ではないかというのだ。さらに二筋の足跡の歩幅は同じである。彼らは歩調を合わせて歩いた。身長とその歩幅から類推すると急ぎ足である。しかも二筋の足跡の間は狭い。10、20センチ足らずしかない。きっと母親は、わが子を抱きしめるようにくっつきあって進んだに違いない。その後を上の子が母親の足跡をなぞりながら進む 」 と述べています。
もちろん証拠立てるものはない。答えは永遠に出ないだろう。
しかしわたしは、この説を耳にしたとき腑に落ちるものがあった。
火山はふたたび今にも噴火しそうな勢いである。もくもくと煙を噴き上げていただろう。しかも見晴らしのいい平原は危険地帯だ。凶暴な肉食獣もいたに違いない。自然は彼らにとって脅威そのものだった。
360万年前の平原を、おそるおそる行くこの三人を結びつけていた感情は、ひとことでいえば “ 怯え ” ではなかったか。彼らは身を寄せ合いながら生き抜いていくほかなかった。いつなんどき災害に、肉食獣に、病に倒れるか分からなかったのだ。
昨今、家族のもろさが指摘されるが、その一因には “ 怯え ” の喪失があるのかもしれない、と私は思う。 “ 怯え ” が個々人の内部にとどまり、家族として共有されなくなった時、その絆はもろい。 ― 日経・文化欄より抜粋。
● 私(増澤)、あまりにも人間的(サル的)な情景描写にビックリ! そして文学的だ。
360万年前の出来事ですよ! すごいドラマを見ているような気がする。もっと違う理由があったかもしれないが、他に推測しようがない。できればタイムスリップして聞いてみたい。
新聞に出た作家の一文が目に留まる。
なるほどと感動する。
そして、記憶のノートに整理する。
人類学者の本を探す。
そして読む。
いろいろな記述に感動する。
自然人類学という分野を知る。
この分野は初めてだ。
なるほどと感動する。
ややあって、それをブログする。
う〜ん と唸って納得する私。
知の連鎖は楽しい。
◎ 「 人間に関する情報を蓄えることは、その人の人間観を育ててゆくことになる。人生観や世界観にも関係する。様々な視点から人間を見ること、これが豊かな人間観を育てる必要条件だと私は考えている 」 ・・・自然人類学者 真家和生。
ちなみに本は:
『 自然人類学入門 』 (ヒトらしさの原点) 真家和生著 技報堂出版 ¥2,200円+税
新聞の文化欄、作家・藤原智美さんの人類の足跡についての一文が目に留まった。

○ まさにソクセキといえるアシアトに出会った。360万年前に残された人類の足跡である。人類学者、真家(まいえ)和生さんの研究室には、タンザニア北部のラエトリで発見された、アウストラロピテクス・アスファレンシスという初期人類の足跡が保存されている。レプリカだが、地表からはがしたように精巧にできている。・・・1978年の大発見は人類学の論争に終止符を打った。
この人類にはチンパンジーと同じ大きさの脳しかない。顔かたちは私たちよりもチンパンジーに近い。石器さえ知らない存在ながら、彼らは何と立って歩いていたのだ。
猿よりも脳が大きくなり、それを支えるために立ち上がった動物が人類、という説は完全にくつがえされたのである。
しかしこの足跡は新たな論争を生んでいる。当初、それは大柄な人類とそれより小さな人類、二人の足跡だと見られていた。大柄といっても足跡から推測するに150センチほどで、小柄なほうは120センチ程度である。初期の想像図は先頭を行く男の少し後を赤ん坊を抱えた女が歩いているというものだった。
ところが詳しく観察するとそれは三人であることがわかってきた。大柄なほうの足跡の中に、もう一つの別の小さな足跡が点々と見つかったのだ。こちらは推定140センチほど。前を行くヒトの足跡をなぞりながら歩くという行動は人間的であり、猿ではない。つまり、それぞれ身長の異なる三人がいっしょに歩いていたということになる。
彼らはどんなグループだったのか ?
近くに噴火する火山があった。地面はぬかるんだ火山灰で覆われていた。スコールがやんだばかりで、地表には雨粒跡も残っている。そこに通りがかったのが三人である。彼らが通り過ぎた1,2時間あとに大きな噴火が起こり、新しい灰が彼らの足跡を360万年間保存することになる。
まずこのグループが家族であったろうと推測するのが順当であろう。二足歩行する人類は、骨盤の形が四足歩行の動物より出産に不向きになる。よって他の動物より胎児が未熟なうちに産み落とし、つきっきりで長い間育てなくてはならない。それには育児、狩りという分業が必要で、現代のような核家族に近いものになる。
三人が家族とすれば話は早い。先頭を父親、そして少し後を母親、さらに子どもが父親の足跡をなぞりながら後ろにつく。これでおさまりがつく。
しかし、自然人類学者である真家和生さんは違った見方をする。

○ 真家さん著作の 『 自然人類学入門(ヒトらしさの原点) 』 を藤原流に要約すると・・・・・:
「 同時期にヌーに似た動物の大群が通った足跡も前方に発見されている。父親は狩りが使命だ。先に獲物を追いかけて三人の家族を置いていったのではないか。
すると残されたのは母親と二人の子供。彼らの足跡ではないかというのだ。さらに二筋の足跡の歩幅は同じである。彼らは歩調を合わせて歩いた。身長とその歩幅から類推すると急ぎ足である。しかも二筋の足跡の間は狭い。10、20センチ足らずしかない。きっと母親は、わが子を抱きしめるようにくっつきあって進んだに違いない。その後を上の子が母親の足跡をなぞりながら進む 」 と述べています。
もちろん証拠立てるものはない。答えは永遠に出ないだろう。
しかしわたしは、この説を耳にしたとき腑に落ちるものがあった。
火山はふたたび今にも噴火しそうな勢いである。もくもくと煙を噴き上げていただろう。しかも見晴らしのいい平原は危険地帯だ。凶暴な肉食獣もいたに違いない。自然は彼らにとって脅威そのものだった。
360万年前の平原を、おそるおそる行くこの三人を結びつけていた感情は、ひとことでいえば “ 怯え ” ではなかったか。彼らは身を寄せ合いながら生き抜いていくほかなかった。いつなんどき災害に、肉食獣に、病に倒れるか分からなかったのだ。
昨今、家族のもろさが指摘されるが、その一因には “ 怯え ” の喪失があるのかもしれない、と私は思う。 “ 怯え ” が個々人の内部にとどまり、家族として共有されなくなった時、その絆はもろい。 ― 日経・文化欄より抜粋。
● 私(増澤)、あまりにも人間的(サル的)な情景描写にビックリ! そして文学的だ。
360万年前の出来事ですよ! すごいドラマを見ているような気がする。もっと違う理由があったかもしれないが、他に推測しようがない。できればタイムスリップして聞いてみたい。
新聞に出た作家の一文が目に留まる。
なるほどと感動する。
そして、記憶のノートに整理する。
人類学者の本を探す。
そして読む。
いろいろな記述に感動する。
自然人類学という分野を知る。
この分野は初めてだ。
なるほどと感動する。
ややあって、それをブログする。
う〜ん と唸って納得する私。
知の連鎖は楽しい。
◎ 「 人間に関する情報を蓄えることは、その人の人間観を育ててゆくことになる。人生観や世界観にも関係する。様々な視点から人間を見ること、これが豊かな人間観を育てる必要条件だと私は考えている 」 ・・・自然人類学者 真家和生。
ちなみに本は:
『 自然人類学入門 』 (ヒトらしさの原点) 真家和生著 技報堂出版 ¥2,200円+税
Posted by masuzawa05 at
09:50
│Comments(0)
2011年11月07日
今どきの旅館に必要なもの・その21

● 設計の仕事で私(増澤)が旅館さんに伺う度に、いつもお願いしていた事。
「 ソフト有ってのハードです 」 どういう風にしたいか仰ってください。我々は作る側のプロですが、使う側のプロではありません。其の辺のところをよく咀嚼してハードである設計に反映させます云々。
ところが、目から鱗が落ちるとはこの事でしょうか。新聞にこんな記事が出ていました。
◎ 現生人類が生き残った理由?:
かつて地球上には20種類近い人類が住んでいた。しかし、今いるのは私たちホモサピエンスだけ。他の人類が滅び、現生人類だけが生き残ったのはなぜか。約2万5000年前に絶滅したネアンデルタール人と比べると、その秘密が見えてくる。
ネアンデルタール人はかつて人類の祖先と考えられたが、骨の化石から取り出したミトコンドリアDNAの解析結果から、60万年前に分岐したと判明。約4万年前から1万年あまりは欧州で現生人類のクロマニヨン人と共存していた。
だが、クロマニヨン人だけが栄えたのはなぜか。
従来は言葉の差だとされてきた。言葉文化を持つことでクロマニヨン人は経験や知識を次世代に伝え、効率的に食料を確保できたと言う。ところが最近ネアンデルタール人にも言葉に関する遺伝子が見つかり、流暢に話せなかったものの言葉を話せたという。ではどうしたことか?
高知工科大学の赤沢教授は 「 道具の技術革新の差ではないか 」 と言う。ネアンデルタール人の石器は時代が新しくなるにつれて精巧になるが、新しい道具を開発した形跡は無く、20万年近く同じ形状だった。
化石に残った窒素の同位体を調べると、ネアンデルタール人は肉しか食べていない。ヤリや斧で大型の哺乳類を殺して食べる生活だったようだ。

クロマニヨン人は1万年おきに石器が進歩。刻む、削るといった目的に応じて加工し、矢尻など狩猟用の道具を開発していった。この結果、小型の哺乳類や魚介類を新たに食料にできた。 「 当時は最終氷河期の最寒冷期で、欧州では食料となる大型の哺乳類が少なかったが、勢力を拡大できた 」 と教授は分析する。
ホモサピエンスの意味は 「 知恵ある人 」。 技術革新を起こす知恵が人類の繁栄をもたらしたようだ。
( 以上、日経・ナゾかがく、食料確保道具の技術革新か。 より抜粋 )
● 私(増澤)、なにをか言わんやである。
時代に合わせて作り方を変えていく。・・・・・ハードである施設作りが大切である。そして、施設作りが変わるゆえにソフトであるもてなしの仕方も、時代に合わせ変わりつつ本道を行く。
もてなす道具空間としてのハードがソフトを喚起刺激し、商品建築として施設の変換をなし、旅館の繁栄をもたらす!?
そんなことが有ってもいい ( 施設・空間・空気が商品だから )。
構造的不況業種と言われないように、もてなしの道具である施設創りに知恵を使い技術革新を加え、 日本の ‘ 宿り ’ の繁栄を導く。
そこにこそ我々 旅館・設計士の生きる道が在る。
世界の建築はアニミズム的感性に裏打ちされた、日本の数奇な空間に集約されると信じている。それは自然との一体感が演出されているからです。
「 心は冒険を求めている 」。
今からでも遅くない! 石井建築事務所に声を掛けていただいて、一緒にゆるやかな改革を実行しようではありませんか。 ハードが大切です さあ、始めましょう。
Posted by masuzawa05 at
09:48
│Comments(0)
2011年10月31日
駒形・どぜう

一度行きたいと思っていた、1801年 ( 江戸時代・寛政13年 ) 創業・浅草の駒形 ( 初代越後屋助七 ) に 娘に誘われて 「 どぜうなべ 」 を食べに行った。
初めての有名どぜう店だったが、ざっくばらんな雰囲気の中、気の利いた接遇・間合いが 流石だ。
なんとも “ うまい ” の一言に尽きる。



まったりとした味の鰌がうまいのはタレがいいからだろうか、たっぷりのネギとゴボウが加わるとこれがまたいい!
酒を喰らった酔いどれどぜうが、鉄鍋の甘ダレ味噌に浮かぶササガキ牛蒡とキザミ葱の浮き藻の下に並んで身を隠す風情。
鉄鍋の甘味噌に浸かって眠るどぜう達。ちんちんとした炭火に炊かれ、哀れ、牛蒡と葱の蓑を纏い、山椒・七味をまぶせられ、芳醇な薫りを放ちつつ、辛口の燗酒とともに哀れ胃袋に収まる至福の瞬(とき)。
これまた細身徳利の形がいい!



○ 鳥のつくねも食べる ( 半熟温泉卵と絡めて )

○ 鯨鍋も食べる

○ 枡酒もグビる ( 奥さんが娘の会社の同僚で、若旦那が差し入れしてくれた伏見の冷酒をグビグビ! )

○ 柳川鍋も食べる

● 食べに食べ! 飲みに飲み! ヤッパシ “ どぜう ” はここのどぜう鍋に限ると思った。・・・旅館でたまに出る柳川は邪道かも?!
浴衣を着た女子従業員の気配り、にこやかな接客が素晴らしい。さすが伝統に裏打ちされた老舗の格であろう。いっぺんにファンになってしまった。
◎ どぜうなべ:
生きたどぜうにお酒をかけ、酔ったどぜうを甘味噌仕立てのしるに入れて煮込みます。このどぜうを鉄なべに並べて、ねぎをたっぷりのせて召し上がるのが昔からの味わい方です。このねぎを食べたくて訪れる客が多いそうです、分かる気がする。
因みにどぜうは大分の綺麗な水で養殖したものを使用しているそうで、そのせいか、売れない歌舞伎役者のような面持ちの ‘ 野田どぜう ’ 程は泥臭くない。
○ 締めはたっぷりの御新香とどぜう汁を従えた、卵かけご飯です。


● 七輪、炭火、鉄鍋・どぜう、キザミ葱、ササガキ牛蒡・山椒に七味唐辛子、粋なお銚子に入った辛口のお酒、ざっくばらんにぽんぽんと鍋を置いてゆく、絶妙な間合いの給仕。 庶民の味に生き続ける江戸文化そのものだ! 心地よい疲れと満腹感でなによりでした。
火照ったからだでどぜうを食べた古狸のように眠りこけ、あぶなく新幹線熱海、伊東線宇佐美駅を乗り越しそうになりました。・・・やれやれでした。
又ぞろ、 駒方どぜう を食べたいと思う不思議・・・。
Posted by masuzawa05 at
10:09
│Comments(0)
2011年10月24日
いまを生きることば
先月、一つ年下の建築士仲間が自殺した。 長幼の序をわきまえたナイスガイだった。
生きている
だけで
意味があるのに・・・・・。

◎ 他力の風 ( 五木寛之 ):
他力というのは、なにか大きな目に見えない力が自分の生き方を支えていてくれているのだ、という感覚なのです。
目に見えないということから、なにかカルト的、超自然的なものと考える必要はありません。自分以外の他のものが、この自分という存在を支えている。「 謙虚に受け取る 」ということが、他力の一番根ところにあるものだろうと思います。
他力ということばを、違った言い方ですれば、目にははっきり見えないが、大きな宇宙のようなもの、エネルギーのようなもの、そういうものが生命や物質の間に見えない風のように流れている。
ではそれは運命論かといえば、運命論でも宿命論でもありません。他力というものを感じるときに、人間はとても自由になれる、そういうものだろうと思います。そのときの感覚こそじつは 「 他力 」 と言うのではないかと思ってきました。
「 他力 」 ということばが生れてくる前の段階にあるものは、「 諦める(あきらめる) 」 という感覚です。
諦めるというのは、物事を投げやりにするとか、いい加減に放り出すことではなく、「 あきらかに究める 」 という意味です。
ギリギリの最後の真実まで目を逸らさずに、しっかりとそれを確かめる。あきらかに究めて、人間は自分の力でなにもかもやれるように見えるけれど、しかし人間の力が及ぶところはここまでなんだな、ということを非常に冷静に謙虚に受け止める。これがじつは諦めるということの本当の意味だろうと思います。
あきらかに究めたことというのは 「 自力では諦めきれぬと諦めた 」 ということではなかろうかと思うのです。
人間は必ずしも自分の思う通りにできるものではありません。どうしても、それができない時もあれば、思いがけずそれが持続して、ビックリするような成果をあげることもある。
人間が思い立つということ自体が、それは自力の働きではなく、なにかそういう他力の風が吹いてきて、そこで 「 よし、やろう 」 と決める。
じつはその時は、他力の風に誘われて決断したのではなかろうか、と思うのです。
● 私(増澤)思いますに
アニミズム的感性でいう 「 祈り 」 「 信じること 」 その先の 「 愛 」
・・・ そして、 我々は生かされている。だから、生きているだけでいい。
生きている
だけで
意味があるのに・・・・・。

◎ 他力の風 ( 五木寛之 ):
他力というのは、なにか大きな目に見えない力が自分の生き方を支えていてくれているのだ、という感覚なのです。
目に見えないということから、なにかカルト的、超自然的なものと考える必要はありません。自分以外の他のものが、この自分という存在を支えている。「 謙虚に受け取る 」ということが、他力の一番根ところにあるものだろうと思います。
他力ということばを、違った言い方ですれば、目にははっきり見えないが、大きな宇宙のようなもの、エネルギーのようなもの、そういうものが生命や物質の間に見えない風のように流れている。
ではそれは運命論かといえば、運命論でも宿命論でもありません。他力というものを感じるときに、人間はとても自由になれる、そういうものだろうと思います。そのときの感覚こそじつは 「 他力 」 と言うのではないかと思ってきました。
「 他力 」 ということばが生れてくる前の段階にあるものは、「 諦める(あきらめる) 」 という感覚です。
諦めるというのは、物事を投げやりにするとか、いい加減に放り出すことではなく、「 あきらかに究める 」 という意味です。
ギリギリの最後の真実まで目を逸らさずに、しっかりとそれを確かめる。あきらかに究めて、人間は自分の力でなにもかもやれるように見えるけれど、しかし人間の力が及ぶところはここまでなんだな、ということを非常に冷静に謙虚に受け止める。これがじつは諦めるということの本当の意味だろうと思います。
あきらかに究めたことというのは 「 自力では諦めきれぬと諦めた 」 ということではなかろうかと思うのです。
人間は必ずしも自分の思う通りにできるものではありません。どうしても、それができない時もあれば、思いがけずそれが持続して、ビックリするような成果をあげることもある。
人間が思い立つということ自体が、それは自力の働きではなく、なにかそういう他力の風が吹いてきて、そこで 「 よし、やろう 」 と決める。
じつはその時は、他力の風に誘われて決断したのではなかろうか、と思うのです。
● 私(増澤)思いますに
アニミズム的感性でいう 「 祈り 」 「 信じること 」 その先の 「 愛 」
・・・ そして、 我々は生かされている。だから、生きているだけでいい。
Posted by masuzawa05 at
10:23
│Comments(0)
2011年10月17日
まぼろしの・薩摩切子展
● ガラスに秘められた 『 藍 』 と 『 紅 』 透けた肌のまさに色っぽい妙齢の美女を想う硝子器の数々、見惚れて廻る建築家・隈研吾さんの空間・・・サントリー美術館。

◎ 江戸時代後期、日本にも虹色に輝くガラスが登場しました。江戸切子や薩摩切子と呼ばれるカットガラスです。かつて、西洋からもたらされた無色透明のカットガラスは、その洗練された美しさから 「 ギヤマン 」 と呼ばれました。「 ギヤマン 」 は、ポルトガル語の 「 ディヤマンテ 」 を語源とし、「 ダイヤモンド 」 意味します。
日本で生まれたカットガラスの中でも、とりわけ鹿児島・薩摩藩が力を尽くして生み出した薩摩切子は、多様な色彩と豊富な文様とのハーモニーが最大の魅力です。
弘化3年(1846)、薩摩藩主・27代島津斉興(なりおき)が始めた薩摩のガラス産業は、息子・斉彬(なりあきら)の代に飛躍的な成長を遂げました。幼い頃からヨーロッパの書物に親しみ、一流の蘭学者と交流のあった斉彬は外国文化も積極的に取り入れました。イギリスの力強い直線やボヘミアの優美な曲線など、その造形にはヨーロッパの影響が多々見られます。また、海外輸出も視野に入れた藩の特産品として開発されたこともあって、現存する器は、将軍家や大名家などに伝来するものも少なくありません。しかし文久3年(1863)、薩英戦争によってガラス工場が破壊されると、その製造は衰退の一途をたどります。
幕末の十数年の間に一気に交流し、明治初期には製作されなくなり、はかない運命を遂げた薩摩切子。西洋への憧れと日本的な美意識とが融合した、独自な美の世界があります。
○ 藍色船形鉢

○ 紅色被碗

○ 藍色酒瓶

○ 紅色被皿

○ 藍色脚付杯

○ 黄色碗

○ 紫色ちろり

○ 紅色皿

○ 藍色被鉢

○ 紅色菊花文三段重

● 飲みたい杯いろいろで目移りがする。
焼酎、冷酒、ウイスキー、ワイン、強いウォッカ・・・ それぞれに旨いだろう。
畑の瑞々しい採りたて野菜を盛り込みたい器も数々ある。 寒を経た無農薬有機大根スライスとカラスミを土ものの器にざっくりとあしらい、それをつまみに切子の小碗で芋焼酎のオンザロックをやる。・・・やがて酔うほどに心地良いまどろみの世界へ。
Posted by masuzawa05 at
08:35
│Comments(0)
2011年10月11日
心に残る建築家の言葉・その30
『 建築家とは伝統を現代の事象と照らし合わせ、ひとつの形にまとめあげていく創造者である 』。

◎ 建築とは目の前の物体だけを指すのではない。それが出来上がるまでの歴史や土地の文化をまるごと含んでいる存在だ。アーキテクチャーとビルディングの違いはそこにある。
● 意外とその辺のところを理解せず、私(増澤)のように万遍だらりと設計に携わっている者の多いい事か。
私の履歴書で磯崎新 ( いそざき・あらた ) さんはこう述べています。
◎ 自分探し;
建築家とは何者か。この問いを初めて突きつけられたのはパスポートを申請した時のことだった。
医師や弁護士と同じ 「 職業 」 の一つだと思っていたので、私は肩書きの欄に 「 アーキテクト 」 とか 「 アーバンデザイナー 」 と書き入れるつもりでいた。ところが交付手続きを頼んだ代理人は 「 そんなのは職業名にはならない 」 と言う。
1960年代はじめのことだ。結局、書類には 「 自営業 」と記されることになり、やがて会社を設立すると 「 会社役員 」に変わった。
『 建築家 』 を自称してようやくパスポートを手に入れたのは85年のころのことだった。私が尊敬してやまない、二十世紀を代表する建築家 ル・コルビュジエは 『 文化創造者 』 をしばしば自称し、パスポートにもそう記していたと聞いたことがある。
数学と絵が得意だと言う理由で専攻を決めたのはよいが、私は建築をどうとらえればよいのか見当がつかなかった。故郷の大分で終戦を迎えたのは中学二年。周りには丸焼けの、焦土が広がっていて、建物とは壊れて消えてゆくものだと考える方が体になじんだ。
エンジニアリングは嫌いではなかったから、もう少し早く生まれていたら間違いなく戦闘機や軍艦の設計者になっていただろう。しかし建築とは飛行機とか船のように構造や強度、性能によって組み立てられるモノと変わらないのか・・・・。
アーキテクチャーを訳した 「 建築 」 とは西洋から輸入された概念である。日本で土木工事を意味していた 「 造家 」 「 造屋 」 という呼称がこれに代わったのは十九世紀末のことだ。私が大学で学んだ50年代、建築学といえばまだ耐震工学が主流で芸術や文化などとはほど遠いものだった。 「 造家 」 の意識は五十年程度ではびくともしない。
そんなころ、ル・コルビュジエの著作 『 New World of Space 』
に出会った。建築書ではない。画家であり、優れた思想家でもある彼が芸術や歴史についての豊かな知識をもとに 「 空間 」 の可能性を自由に説いていた。
こんな具合に自分なりの考えをまとめられるようになるまで、私は半世紀以上にわたり目指すべき建築家像を探し続けてきたように思う。 ( 新聞より一部抜粋 )
● 私(増澤)、大学は空手道部を卒業し、あまり勉強もせぬまま今日まで。建築家と名乗るのはおこがましく、密かに商売として設計をしている関係上 「 建築屋 」 を標榜していました。若い時年長のオーナーから 「 おい設計士! 」 と呼ばれて以来、建築屋と設計士との間を行ったり来たり。勿論パスポートとか履歴書、職業欄には 『 建築士 』 とか 『 建築設計士 』 と書いている。
60歳を越えてしまっている現在、納得のいく建築ができたら、一度くらい ‘ 建築家 ’ を名乗ってみたいものだと思っている。
近年のバブル景気だった頃、イギリス人 ( その他の外国人用にも ) のオーナーに会うために英語の名刺を作りました。
Chief Executive Officer
Shinichiro Masuzawa
First class authorized Architect
成果はどうか・・・って!? 私共で設計したステーキハウス浜田でランチを共にし、習いたての英語で接遇したのですが、どうもごはんに醤油をかけるのが好きな若いお兄さんで・・・・・、その後バブルが弾け、泡と消えました。
半信半疑ながらも、少し期待していたので残念でした。
Posted by masuzawa05 at
14:18
│Comments(0)
2011年10月03日
ちょっといい話・その9

● 2010年、平城遷都1300年の記念イベントの一環として、JTB関係のコンサル部門の依頼で、奈良の旅館さん中心に 「 今どきの旅館について 」 と題して、2時間ほど宿づくりについて話したことがある。その為の奈良についての事前勉強で松岡正剛・編集構成、日本と東アジアの未来を考える委員会・監修の ならじあ ( NARASIA ) を購入し、ささやかな勉強をした。
たまたま近頃、中国で旅館の設計を始め、台湾での仕事の話もある中、アジアと日本のつながりや、文化の成り立ちを勉強・再認識するべく読みなおしている。意欲が空回りしないよう知識吸収のため、吾が不勉強を恥じつつも、老いに向け 『 知的に恥をかく 』 ことは必要と割り切って臨んでいる。
求める 「 アジアンな和宿 」 のヒントを探してみた。
◎ 東アジア地中海:
東アジアといえば、広大なユーラシア大陸の東端地域というイメージがあり、 「 極東 」という名称に至っては、世界の果てのような地を連想させる。
だが実態は東アジア地中海という豊かな海を巡る文化圏で、ヨーロッパ地中海と根底的に比較検討しなければならない対象なのだ。
東アジアの長い歴史の間、この海は文物の伝播海道であり、時には政治対立の深い海溝でもあった。 ― 千田稔。
● 東アジア地中海という発想は私には無かった。言われてみれば海を介しての文化の伝播が歴然としてあったのだ。
◎ 複数思想:
複数の思想的要素の混在と多様な冥衆(みょうしゅ:人の目に見えない諸天・諸神)の共存は東アジアや東南アジアにも広く見られる現象です。
私たちが日本をフィールドとして行う思想研究は、アジア各地域の精神世界の探求に広汎に応用できる可能性があります。
アジア以外の地域についても、カトリックやイスラムといった一神教の教義を中心としてなされてきた、欧米の伝統的な哲学や思想研究の理論的枠組みを見直す視点を提示するものとなるでしょう。 ― 佐藤弘夫。
● 多様な冥衆(みょうしゅ)とはよく言ったもので、素晴らしい。混沌とするこれからの世界、一神教でない我々の‘ 融通無碍さが ’ が世界のまとまりの接着剤となるでしょう。
◎ 亜魂和才:
かつての日本は、古来、中国からいろいろなことを学びましたけれども、不自然な宦官の制度や纏足は絶対に対馬海峡の内側には入れなかった。文化の受容の点で、しっかり自分の物差しを持っていた。
「 和魂洋才 」 という言葉がありますけれども、これからは 「 亜魂和才 」 が大切になってくるように思います。 ― 平山郁夫
● 物差し違いかもしれないが、大量より心のこもった少量を大事にしたい。
外来のものに対しての日本人のオリジナルな物差しを持たなければいけない。スーパーやファーストフード、コンビニ、その他便利なもの達、安易に受け入れて南から北まで日本中の町なみが皆同じ顔をしている不気味さ、それによって消えていった個人商店や、隣人同士のコミュニケーションの輪の喪失、残念なことだ。
私は子供の頃から伊東市の宇佐美に住んでいる。そして昔から同じ場所でずっと商売している魚屋さんに、最近ではあるが地物の鰯を頼んでいる。入荷するとTELがあり、刺身や・ねぎぬた・おする身にして頂いている。 うまい! おまけに安いのだ。( たまにもらう鰯の味醂干しも旨い )
◎ 寛容と統合:
元来、日本の文化の伝統的な基調は 「 寛容さ 」 であったはずです。この 「 寛容さ 」 をもって、多元的な要素を基礎とした多様な価値観の共存する社会を積極的に認めていくことが必要です。
そうすれば開かれた社会の統合性 ( integrity ) の中に自在に花開く多様性と確信が創造されるでしょう。そこから二十一世紀日本の新しい社会が始まります。― 小林陽太郎
● 広い心で受け入れていく・・・なかなかできない、でもやらねば。
◎ 部品の合わせ:
日本特有な 「 ものへの思い入れ 」 が、技術上まったく価値のないものかといえばそうでもない。
ひとつひとつの部品(部材)の性質をじっくり見極め、それを適所にあしらうことによって一千年以上も風雪に耐え、微動だにしない木造建築物を作り上げる 「 合わせ 」の建築手法は、この 「 ひとつひとつの部材への思い入れ 」 なくしてはなりたたないわけである。 ― 石井威望
● 私の目指す心を入れて形に表す ( The mind expressed in shape )ということでしょう。もの作りの原点かもしれない。
◎ 「 もの 」 と 「 あいまい 」:
古代人は混沌としたものに畏怖を抱き、大切にしてきた。
「 もの 」 というやまとことばがある。ものと言う認識の中には混沌を許容し、「 あいまい 」 を排除しない崇高な感情が抱かれていたのである。
それこそが本質的な認識の仕方ではないのか。
それを日本人の心として、ヨーロッパに 「 もの 」 を届けたいと思う。― 中西進
● あきらめではない ‘ 仕方なさ ’ から生まれる解決策もある。
◎ 儒教と侘び:
現代の日本人は、儒教の考え方が染み込んだ中国文化の核心と、中国人の思考回路を理解できないでいる。
又現代の中国人は、西洋的教養体系に育まれている日本人でありながら、同時に 「 侘び 」 「 寂び 」 の境地にたどりついた日本文化の独自性に気づいていない。
互いに異文化と認め合い、その上で相互理解を進める基本が欠落しているように思われる。― 王敏
● 双方の理解不足なのか? 春の訪れ( ここまではやっていいという国の方針 )を喜ぶあまり、礼を失して強欲さに走っているのはどちらだ!
◎ 漂泊とリセット:
日本人はもともとリセット民族だ。もう少し和風の言葉でいえば 「 水に流す 」 文化、あるいは 「 禊(みそぎ)文化 」 を持った民族だ。
「 生まれ直したつもりでやってみる 」 とか、 「 禊が終わった 」 とか、過去をリセットする言葉は今でもたくさん残っている。
そしてそれには 「 漂泊 」 が深く関わっている。 ― 安田登
● 砂漠の民には流す水が無い。目には目を歯には歯を! 厳しい戒律の中ガチガチとぶつかり傷つく。けれども戒律を守っているがゆえに死しても、心は救われるのだろう。死んでからでは何もならないと思うのだが。
◎ 異と知と工夫:
「 異 」 なるものと出会う。知がそれに及ぼうとする。みずからの既知の方法の内部に、衝撃的な未知なるものを掴み抱こうとする。そのとき、どの文化にも属さない、なにものをもアイデンティティー(類似していること)としない、もう一つの発想法が生まれる。
日本人はそれを 「 創造 」 などというだいそれた言い方はせず、「 工夫 」 と呼んできた。小説も工夫であり、鉄砲も工夫であり、時計も農業開発も博物学も工夫であり、政治や経済や思想もまた工夫であった。
それらは、未知なるアジアを既知なるものに転換しようとする大きなエネルギーによって作られて行った。 ― 田中優子
● 畳敷きの旅館の客室に座り寝転び憩う。
布団を敷き眠る。
ベッドの要望には床を上げた和ベッドで答え、時に低床のベッドを置き、屏風で仕切りつつも、和の風情に憩う。
畳敷きの宴会場にて椅子テーブルで食事する。融通無碍な設えを室礼と呼び時代の要請に答える。
私(増澤)はそれをささやかではあるが “ 工夫 ” と呼ぶ。機能を限定しない和室は素足ゆえに工夫次第で生き延びることができる。
工夫の先にあるものを求めて漂泊とリセットを繰り返しながら時代の荒波を乗り越えていく知恵。
◎ 感ずる宗教:
私は長いあいだ、一神教が 「 信ずる宗教 」 だとすると、多神教は 「 感ずる宗教 」 ではないかと思ってきた。だから日本人の信仰のあり方も、この 「 感ずる宗教 」 によって育まれ、きたえられてきたのだろうと考えてきた。 ― 山折哲雄
● 「 感ずる宗教 」 とはよく言ったもので、感心する・・・!?
◎ 普遍と矛盾:
さまざまな比較文化論が、日本社会と西洋との相違を強調してきた。その差異は、思い切って単純化してしまえば、キリスト教的な伝統の有無に求められてきた。
だが、他方で、日本は、西洋風の近代化に最も早い段階で成功した、非西洋社会でもある。
こうした 「 矛盾 」 が生ずるのは、 「 普遍宗教 」 が広く根付いたことが一度もなかったという意味で、日本社会は 「 無神論的 」 だったからではないか。
― 大澤真幸
● 無神論者であるけれども、あらゆるもの・ことに感謝の気持ちを表し、神なるものの存在を感じます。
◎ 空観へ:
コペルニクスやガリレイが 「 地動説 」 を唱えたときも、またダーウィンが 「 進化論 」 を主張したときも、欧州では宗教界のみならず一般市民も巻き込んで大騒ぎになりました。それらがキリスト教の世界観と完全に矛盾するからでした。
しかし、アジアでこのような騒ぎがあったとは聞いたことがありません。それは多くの人々が 「 空 」 観の思想を持っていたからです。 ― 籔内佐斗司
● 仏教ではもろもろの事物は縁起によって成り立っており、永遠不変の固定的実体はないということ。色即是空の大乗仏教の真理。 要するに絶対は無いということでしょう。あいまいさがいいんです。
● 中国は近くて遠い国だったが、行ってみれば近い国。しかし・・・、
漢字と箸の文化は共通だが、中国はベッドとスープの国、わが国は畳と味噌汁の国、ヨーロッパとは中近東を介し地続きで、日本とは海を隔てた地勢のせいか、中国はよりヨーロッパ的で、似て非なるものもあまた有る。
世界人口70億人、アジアは世界の半分の人が住まう世界の中心。お互いを思いやって共存共栄したいものだが、地続きで他民族からの侵略・征服を繰り返えされてきた人々はしたたかで手強い。
のんきな父さんの鳩山さんが言うような ‘ 友愛の海 ’ にするのにはこちらも腹を据え、技術・経済のサポートの下、外交・防衛 努力を重ねざるを得ないのが現実であり、それが国民を守るために国家が先ずしなければならない重要課題だ。
口先だけの理想論では真の理解は得られない。
Posted by masuzawa05 at
09:20
│Comments(0)
2011年09月26日
色彩の詩人・マティス展
青い縞模様のシャツを纏った愛娘の絵を新聞紙上で見て、マティス展を知った。
爽やかさゆえにその絵に会いたくて、はやる心でブリヂストン美術館に出掛けた

1869年、フランス北部の高級織物の産地 ル・カトー=カンブレジにマティスは生まれた。ボアンで穀物商を営む父はマティスにパリで法律の勉強をさせ、故郷からほど近いサン=カンタンの法律事務所職を得るとともにデッサンを習い始める。そして、20歳の時虫垂炎をこじらせ病に伏していた際、グービルの 『 絵画論 』 を読み、母親からおくられた絵の具を使って絵を描き始める。そして、翌年には画家になる決心をし、再びパリに出る。
20世紀初頭のフォーヴィスム ( 野獣派 ) 中心人物であった彼は、絵画における既成概念に挑戦し続けました。その革新的でありながら情感と知性のバランスがとれた新手法は、フランスのみならず諸外国の画家たちへも広まり、マティスは20世紀前衛芸術の先導者となりました。
◎ 「 私は一枚の絵をみるとき、何が描かれているかは忘れてしまう。大切なのは線と形と色だけである。 」 ― アンリ・マティス

○ 赤い胴着の女

○ JAZZ < イカロス >

◎ 目指したのはこの絵 縞ジャケット

● お目当ての絵に会えてよかった。
けだるい夏の一日、都心の高級ホテルにアーリーチェックイン、シャワーを浴びさっぱりとして、こんな青い縞のシャツを纏い、夕暮れの銀座あたりをお洒落に颯爽と歩き、レストランで良く冷えたビールを、磨きこまれた冷たい細身の薄口グラスで先ずは一杯・・・。 ライトディナーの始まりです。 この絵にはそう思わせる清涼さがある。
◎ 色彩とリズムの即興 ― 私は色でデッサンする:
『 南極と北極 』 かつてピカソは、20世紀の絵画史上最も名高く、最も大きな役割を果たした二人の画家をこのように形容したという。実際、マティスとピカソはよきライバルだった。半世紀以上にわたる二人の交わりは、馴れ合いに陥らない分別ある友情のうえに築かれていた。色彩の詩人マティスはフォルムの破壊者ピカソのなかに自分と正反対の資質を見出していた。 「 私は色彩を通して感じる 」 とマティスは言う。 「 だから、私の絵はいつも色彩によって統一が与えられるのだ。だがそのためには、感覚を凝縮し、用いる手段を最大限に表現する必要がある。 」 と述べています。
画家にとって、一本のバラを描くことほど難しいものはない。
なぜならば、そうするために、
今までにあらゆるバラが描かれていることを、
まず忘れなければならないからである。
◎ 切り絵:
1943年ごろ、陽光溢れる南フランスのシミエ、そして後にプロヴァンスにあって、
マティスは絵で語るべきものはすべて語ったと感じていた。しかも、病気のために絵の具
を扱うのが難しくなっていた。紙をあらかじめグワッシュで彩色し、好きな形に切るとい
う方法を用い始めたのは、その時である。
『 色彩とリズムの即興 』
『 生きた色を切り取る事は、彫刻家の直彫りを思い出させる、私の曲線は狂っていな
い 』

○ 白のトルソと青のトルソ

○ 青のヌード

○ 切り絵いろいろ



● 私(増澤)思いますに、ペインティングできなければ切り絵で! 芸術家のものすご
い執念を感じます。
今、ニューヨークのMoMA( museum of modern art )の階段室に飾ってあったダンシングサークルを思い出しています。
そう言えば、輪になって色が踊っていました。
喫茶でティーしました( アールグレイのアイスティー付のショコラミルフィーユ )。
甘いもの好きの私です。 セットで¥900でした
Posted by masuzawa05 at
09:30
│Comments(0)
2011年09月21日
大震災にまつわるいろいろ (8・15からの眼差し)震災6ヶ月
◎ 国破れて山河あり
山河破れて国あり

66年前の敗戦の時は、国は敗れたが、日本の里はあった。段々畑も森もあり、川も残っていた。いま私たちに突きつけられているのは、 『 山河破れて国あり 』 と言う現実ではないか。歌にもうたわれたお茶の葉からも放射能が検出されるようになった。なにより悲劇的な問題は、汚染が目に見えないことだ。依然として山は緑で海は青い。見た目は美しくて平和でも、内部で恐ろしい事態が進行している。平和に草をはんでいる牛さえも内部汚染が進んでいるかもしれない。かつてこんな時代はなかった。
『 山河破れて国なし 』 と言う人もいるかもしれない。ただ、原発の再開も、復興の予算も今も国が決定する。今も国はあるんです。ただ、今ほど公に対する不信、国を愛することに対する危惧の念が深まっている時代はない。戦後日本人は、昭和天皇の玉音放送のように、堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、焼け跡の中から復興をめざし国民一丸となってやってきた。今、大変な大きな亀裂が、ぽっかり口を開けている。
私たちは、原発推進、反対を問わず、これから放射能と共存して生きていかざるを得ない。たとえ全部の原発を停止しても使用済み核燃料を他国に押しつけるわけにはいかない。放射能を帯びた夏の海で子供と泳ぎ、放射能がしみた草原に家族でキャンプする。その人体への影響の度合いは、専門家によってあまりにも意見の開きがある。正直判断がつきません。
だから、政府の情報や数値や統計ではなく、自分の動物的な感覚を信じるしかない。未来への希望が語れないとすれば、きょう一日、きょう一日と生きていくしかないという実感です。第一の敗戦のときはまだ明日が見えた。今は明日が見えない。だから今この瞬間を大切に生きる。国は私たちを最後まで守ってくれはしない。
( 五木寛之 作家 78歳)
◎ 負担、覚悟すべき時 ( モデル不在、生き方再考 )

終戦のときは、我々は根こそぎ裸になり、何の資産もなくなった。皆が同じような境遇にあり、貧乏を辛抱するのは当たり前と思っていた。国民全体が危機感を共有していた。
現状はどうだろう、日本の累積債務残高は、国と地方を合わせ国内総生産(GDP)の2倍に達している。今年度の当初予算でも、税収より国債発行額が多い。国家としては完全に破産状態だ。莫大な国債の利払いだけでも大変なのに、震災による多額の復旧・復興予算を加えると、膨大な負担をしていかなければならない。国民誰もが覚悟すべきときです。
今のアメリカ経済は日本以上にひどい。なぜ日本がこんな状態なのに、円高が続くのか。ユーロ圏は大きな不安要因をかかえ、一党独裁体制の中国も、様々なひずみが表面化している。日本には、もうモデルがありません。
今度の震災で、日本の自動車産業を支えているのは、地方の部品メーカーだったことがわかった。優秀な中小企業の、小さくても最高のものづくりをする技術力が、財産だ。GDPが右肩上がりの時代ではない。成長より成熟が必要な時です。日本製品は信頼性が高い、そして、日本人の言うことは信用が出来る、と他国から評価されることがなにより大切だろう。
見習うべきモデルはもうない。どこへ行こうか、どうしようか、考えることではないですか。
『 われわれはどこから来て、どこへ行くのか 』 と来し方行く末を思い、それぞれが生き方を見つめ直すしかない。 ( 中村 稔 詩人で弁護士 84歳 )
◎ 科学に後戻りはない

今度の震災の後は、何か暗くて、このまま沈没してなくなってしまうんではないか、という気がした。元気もないし、もう、やりようがないよ、という人が黙々と歩いている感じです。東北の沿岸での被害や原子力発電所の事故の影響も合わせれば、打撃から回復するのは、容易ではない。
労働力、技術力をうまく組織化することが鍵を握る。規模の拡大だけを追及せず、小さな形で緻密に組織化された産業の復興をめざすべきだ。疲れずに能率よく働くシステムをどうつくっていくか、がとわれるだろう。それには技術力のある中小企業を大企業がしっかり取り囲む必要がある。外注して使い捨てるのではなく、組織内で生かす知恵が問われている。この震災を、発想転換のまたとない機会ととらえれば、希望はある。
原発をやめるという選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はありえない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。
だから危険な場所まで科学を発展させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防御装置を作る以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です。
全体状況が悪くても、それと自分を分けて考えることも必要だ。僕も自分なりに満足できることをする。公の問題に押しつぶされず、それぞれが関わる身近なものを、一番大切に生きることだろう。 ( 吉本 隆明 詩人で批評家 86歳 )
◎ 戦後66年は砂上の楼閣

三月十一日を境に、何もかも失い、寒空の下震えるしかなかった被災者たち。
自身は昨日までの当たり前を断絶し、日常は非日常となった。日本列島に住まうものすべて自然の驚異を前に圧倒された。次々映し出される惨状は想像を超えて、我々は打ちひしがれ、人間という生き物の無力をつくづく思い知らされた。まもなく5ヶ月が経つ。
ひたすら呆然と過ごすしかなかった被災者は、少しずつ日常を取り戻し、自分の足で立ち上がろうとしている。一方で、国への不信感、怒りは日に日に募る。いつしかいかんともし難い諦観、虚無感と結びつき被災者の心に横たわっている。これはなかなか拭えない。国の態度は踏み出しかけた被災者の足を引っ張っている。
語弊があるかもしれないが、昭和二十年の焼け跡は、いっそあっけらかんと明るい印象だった。この度は違う。先が見えず、立ち尽くすしかない。ため息すら出なかっただろうと思う。
焼け跡のスタートはゼロから始められた。それに高度成長が伴った。この度はゼロに戻すことから始めなければならない。経済は疲弊している。ここにいつ収まるともつかない放射能汚染が加わる。
戦後六十六年を経て、かえりみれば被災地だけじゃない、都会もまた紙一重で明日は焼け跡じゃないか。文明に囲まれ、物質的豊かさの中で暮らし、飽食の時代とやらを過ごす。しかしすべて砂上の楼閣。ただ今の暮らし、電気がなければお手上げ。原子力推進派のいう電力不足は脅しの一種だが、日本はガタガタ。この電力システムはお上先導のもと進められたとはいえ、世間もまた、便利が一番と受け入れてきた。四季の移ろう列島に住みながら食べものは外国任せ。海の向こうが不作に陥れば、あるいは損得の駆け引きによって輸出取り止めとなればたちまち飢えに苛まれる。つまり他国の胸三寸で、日本は生かされも殺されもする。
平和を唱えていれば生きていける。その平和な国で自殺者は増え、食い物は危なっかしい。空気は汚染され文化伝統は薄れるばかり。豊かさと引き換えに失ったものは大きい。このたびの震災は国難に違いない。今こそ、日本人一人一人が立ち止まり、考える時である。 ( 野坂 昭如 焼跡闇市派作家 80歳 )
● 終戦記念日を前にしての4人の識者意見を、日経の文化欄から抜粋させていただきました。まったくその通り。
しかし 「 来し方行く末を思い 」 せめて 「 今日という日を一生懸命に生きる 」。では、なんとも情けない。個人の生き方としてはその通りですが、これからの展望を聞きたかった。
◎ エネルギーは今後ますます必要とされ、エネルギー=知識と言い換えてもいい。エネルギー需要が増え続ける中で、ここ数十年の間は原子力発電と共存せざるを得ない現実がある。
落ち込む心があれば諸々が落ち込んでいく。人生もっと明るく、前向きに正しく思えば間違わずにことが進んでいく。・・・てなことを、立花隆さんが言っていました。私(増澤)も、立花流考え方に同感です。

● 明治維新 → 第二次世界大戦の敗戦 → 今回の大震災、一連の大きな変革の中で国を憂い、どうあるべきかを真摯に問う、日本にとっては三つ目の正念場、保守本流の台頭が望まれる。経済力によるバックアップを受け、外交に誠意をみせ、防衛力の充実を計る、このこと忘れてはいませんか。
政府民主党は市民運動家や日教組の人たちに牛耳られ、チマチマとした政策に明け暮れるのではなく、皇紀2600年の伝統を守り、広く世界に目を向けて正義のために生きる心意気を見せて欲しい。心からそう思う。
山河破れて国あり

66年前の敗戦の時は、国は敗れたが、日本の里はあった。段々畑も森もあり、川も残っていた。いま私たちに突きつけられているのは、 『 山河破れて国あり 』 と言う現実ではないか。歌にもうたわれたお茶の葉からも放射能が検出されるようになった。なにより悲劇的な問題は、汚染が目に見えないことだ。依然として山は緑で海は青い。見た目は美しくて平和でも、内部で恐ろしい事態が進行している。平和に草をはんでいる牛さえも内部汚染が進んでいるかもしれない。かつてこんな時代はなかった。
『 山河破れて国なし 』 と言う人もいるかもしれない。ただ、原発の再開も、復興の予算も今も国が決定する。今も国はあるんです。ただ、今ほど公に対する不信、国を愛することに対する危惧の念が深まっている時代はない。戦後日本人は、昭和天皇の玉音放送のように、堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、焼け跡の中から復興をめざし国民一丸となってやってきた。今、大変な大きな亀裂が、ぽっかり口を開けている。
私たちは、原発推進、反対を問わず、これから放射能と共存して生きていかざるを得ない。たとえ全部の原発を停止しても使用済み核燃料を他国に押しつけるわけにはいかない。放射能を帯びた夏の海で子供と泳ぎ、放射能がしみた草原に家族でキャンプする。その人体への影響の度合いは、専門家によってあまりにも意見の開きがある。正直判断がつきません。
だから、政府の情報や数値や統計ではなく、自分の動物的な感覚を信じるしかない。未来への希望が語れないとすれば、きょう一日、きょう一日と生きていくしかないという実感です。第一の敗戦のときはまだ明日が見えた。今は明日が見えない。だから今この瞬間を大切に生きる。国は私たちを最後まで守ってくれはしない。
( 五木寛之 作家 78歳)
◎ 負担、覚悟すべき時 ( モデル不在、生き方再考 )

終戦のときは、我々は根こそぎ裸になり、何の資産もなくなった。皆が同じような境遇にあり、貧乏を辛抱するのは当たり前と思っていた。国民全体が危機感を共有していた。
現状はどうだろう、日本の累積債務残高は、国と地方を合わせ国内総生産(GDP)の2倍に達している。今年度の当初予算でも、税収より国債発行額が多い。国家としては完全に破産状態だ。莫大な国債の利払いだけでも大変なのに、震災による多額の復旧・復興予算を加えると、膨大な負担をしていかなければならない。国民誰もが覚悟すべきときです。
今のアメリカ経済は日本以上にひどい。なぜ日本がこんな状態なのに、円高が続くのか。ユーロ圏は大きな不安要因をかかえ、一党独裁体制の中国も、様々なひずみが表面化している。日本には、もうモデルがありません。
今度の震災で、日本の自動車産業を支えているのは、地方の部品メーカーだったことがわかった。優秀な中小企業の、小さくても最高のものづくりをする技術力が、財産だ。GDPが右肩上がりの時代ではない。成長より成熟が必要な時です。日本製品は信頼性が高い、そして、日本人の言うことは信用が出来る、と他国から評価されることがなにより大切だろう。
見習うべきモデルはもうない。どこへ行こうか、どうしようか、考えることではないですか。
『 われわれはどこから来て、どこへ行くのか 』 と来し方行く末を思い、それぞれが生き方を見つめ直すしかない。 ( 中村 稔 詩人で弁護士 84歳 )
◎ 科学に後戻りはない

今度の震災の後は、何か暗くて、このまま沈没してなくなってしまうんではないか、という気がした。元気もないし、もう、やりようがないよ、という人が黙々と歩いている感じです。東北の沿岸での被害や原子力発電所の事故の影響も合わせれば、打撃から回復するのは、容易ではない。
労働力、技術力をうまく組織化することが鍵を握る。規模の拡大だけを追及せず、小さな形で緻密に組織化された産業の復興をめざすべきだ。疲れずに能率よく働くシステムをどうつくっていくか、がとわれるだろう。それには技術力のある中小企業を大企業がしっかり取り囲む必要がある。外注して使い捨てるのではなく、組織内で生かす知恵が問われている。この震災を、発想転換のまたとない機会ととらえれば、希望はある。
原発をやめるという選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はありえない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。
だから危険な場所まで科学を発展させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防御装置を作る以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です。
全体状況が悪くても、それと自分を分けて考えることも必要だ。僕も自分なりに満足できることをする。公の問題に押しつぶされず、それぞれが関わる身近なものを、一番大切に生きることだろう。 ( 吉本 隆明 詩人で批評家 86歳 )
◎ 戦後66年は砂上の楼閣

三月十一日を境に、何もかも失い、寒空の下震えるしかなかった被災者たち。
自身は昨日までの当たり前を断絶し、日常は非日常となった。日本列島に住まうものすべて自然の驚異を前に圧倒された。次々映し出される惨状は想像を超えて、我々は打ちひしがれ、人間という生き物の無力をつくづく思い知らされた。まもなく5ヶ月が経つ。
ひたすら呆然と過ごすしかなかった被災者は、少しずつ日常を取り戻し、自分の足で立ち上がろうとしている。一方で、国への不信感、怒りは日に日に募る。いつしかいかんともし難い諦観、虚無感と結びつき被災者の心に横たわっている。これはなかなか拭えない。国の態度は踏み出しかけた被災者の足を引っ張っている。
語弊があるかもしれないが、昭和二十年の焼け跡は、いっそあっけらかんと明るい印象だった。この度は違う。先が見えず、立ち尽くすしかない。ため息すら出なかっただろうと思う。
焼け跡のスタートはゼロから始められた。それに高度成長が伴った。この度はゼロに戻すことから始めなければならない。経済は疲弊している。ここにいつ収まるともつかない放射能汚染が加わる。
戦後六十六年を経て、かえりみれば被災地だけじゃない、都会もまた紙一重で明日は焼け跡じゃないか。文明に囲まれ、物質的豊かさの中で暮らし、飽食の時代とやらを過ごす。しかしすべて砂上の楼閣。ただ今の暮らし、電気がなければお手上げ。原子力推進派のいう電力不足は脅しの一種だが、日本はガタガタ。この電力システムはお上先導のもと進められたとはいえ、世間もまた、便利が一番と受け入れてきた。四季の移ろう列島に住みながら食べものは外国任せ。海の向こうが不作に陥れば、あるいは損得の駆け引きによって輸出取り止めとなればたちまち飢えに苛まれる。つまり他国の胸三寸で、日本は生かされも殺されもする。
平和を唱えていれば生きていける。その平和な国で自殺者は増え、食い物は危なっかしい。空気は汚染され文化伝統は薄れるばかり。豊かさと引き換えに失ったものは大きい。このたびの震災は国難に違いない。今こそ、日本人一人一人が立ち止まり、考える時である。 ( 野坂 昭如 焼跡闇市派作家 80歳 )
● 終戦記念日を前にしての4人の識者意見を、日経の文化欄から抜粋させていただきました。まったくその通り。
しかし 「 来し方行く末を思い 」 せめて 「 今日という日を一生懸命に生きる 」。では、なんとも情けない。個人の生き方としてはその通りですが、これからの展望を聞きたかった。
◎ エネルギーは今後ますます必要とされ、エネルギー=知識と言い換えてもいい。エネルギー需要が増え続ける中で、ここ数十年の間は原子力発電と共存せざるを得ない現実がある。
落ち込む心があれば諸々が落ち込んでいく。人生もっと明るく、前向きに正しく思えば間違わずにことが進んでいく。・・・てなことを、立花隆さんが言っていました。私(増澤)も、立花流考え方に同感です。

● 明治維新 → 第二次世界大戦の敗戦 → 今回の大震災、一連の大きな変革の中で国を憂い、どうあるべきかを真摯に問う、日本にとっては三つ目の正念場、保守本流の台頭が望まれる。経済力によるバックアップを受け、外交に誠意をみせ、防衛力の充実を計る、このこと忘れてはいませんか。
政府民主党は市民運動家や日教組の人たちに牛耳られ、チマチマとした政策に明け暮れるのではなく、皇紀2600年の伝統を守り、広く世界に目を向けて正義のために生きる心意気を見せて欲しい。心からそう思う。
Posted by masuzawa05 at
10:36
│Comments(0)
2011年09月12日
革新とは何か
革新的アーティストと題し、アートディレクターの佐藤可士和氏は、村上隆さんのことを作品 『 達磨 』 を引き合いに出してこう述べています:

◎ アートヒストリーを理解しないひとには、村上隆の真のすごさが伝わっていないと思う。なぜあの巨大フィギュアが高額で落札されるのか。 ( フィギュア・figure:表象、像、図案 )
アニメや漫画などの日本のオタク文化を、村上は欧米で初めてアートの文脈の中に提示し成立させた。サブカルチャーをアートとして成立させたのはウォーホール以降初めてだろう。村上はルイ・ヴィトンとのコラボレーションも手掛けた。普通の作家はなかなかこんな巨大商業ブランドとは手を組まない。強すぎるブランドに個性が埋没することを嫌うからだ。
こうした仕事を村上は短期間のうちに鮮やかにこなし、期待以上の成果を上げた。その影響の大きさは計り知れず、日本文化の価値も大いに高めた。世界のアート市場で高く評価されるのは、活動に対する欧米人のリスペクトの結果なのだ。 ( リスペクト・respect:人としての価値を認めること、 ふり返させること )

『 達磨 』 は、実は僕の事務所の床の間を気に入ってくれた村上氏がそこで仕上げた平面作品。大陸から渡来しハイブリッドされて完成した達磨の姿。それを日本の新しいモチーフとして再発見するセンス。大型作品なのに、目の中の一ミリほどの円もゆるがせにしない集中力。世界的作家のマネのできないクオリティーの秘密に間近で触れたひとときは、僕のアート人生でも最高に幸せな時間だった。 ( ハイブリッド・hybrid:雑種、異種のものの混生物、 クオリティー・quality:質 )
● 革新とは何か: 私(増澤)思いますに・・・。
新しい提案をし、既成の大きな力に負けない ‘ 質 ’ と ‘ センス ’ が有ること。そんなふうに思いました。
Posted by masuzawa05 at
09:00
│Comments(0)
2011年09月05日
縄文時代の貝塚遺跡は無事だった
◎ 「 職 」 と 「 住 」 が分離:

東日本大震災を経て後、
松島湾は縄文時代と同じ風景を今でも見ることができる、全国でも貴重な地域だ。この湾周辺は縄文時代以降、海面が下がるのと同じペースで地盤が沈下したため、海岸線が変わっていない。
それもあって松島湾にある里浜貝塚や大木囲貝塚など7000〜3000年前の遺跡を、私は20年以上調査してきた。
この周辺の貝塚は海岸沿いにあるように見える。しかし実際は標高15〜30メートルの高台にあり、今回の大津波の被害を逃れた。縄文時代の集落の大半は、このような海と山の “ 接点 ” にあり、発掘しても地震を除けば大災害の被害は見当たらないのが特徴だ。
もっとも、縄文人が防災を考慮に入れていたとは必ずしもいえない。狩猟、漁猟、木の実拾いと、より多くの場所に行きやすい場所に住んだだけだ。自然に 「 広く薄く 」 依存し、いわば職住分離だったことが災害に強い “ まちづくり ” につながったのだろう。

対照的なのが弥生時代以降の集落だ。発掘すると、洪水や津波など大災害の跡がしばしば見つかる。弥生時代の水田跡である仙台市の沓形遺跡が一例だ。海岸から4キロ離れているにもかかわらず、その周辺は今回の津波で大きな被害を受けた。約2000年前にも大きな津波を受けた痕跡がある。その後耕作が再開されたのは4世紀。いったん断絶した水田が復活するのに数百年を要したことになる。
弥生時代に農耕が始まると、水田適地や交易拠点など特定の場所に多大に投資して、 「 狭く濃く 」 利用するようになる。生活の中心と仕事場も一致。生産性は上がったが、災害には弱くなった。まさに 「 一所懸命 」 だ。しかも何度も同じ災害に見舞われる傾向がある。
● 私(増澤)思いますに、海に面した河川沿いの扇状地に住まいと田畑を同居させ、効率化を図った。災害には海・河の護岸で対処し、あたかも自然災害を克服したかに見えた・・・しかし今回の大津波である。
◎ 人の力の限界を意識:
縄文時代と弥生時代以降の自然観が大きく異なる。その象徴が貝塚だ。集落のすぐ隣にあり、墓地として遺体も埋葬された。教科書では 「 当時のゴミ捨て場 」 と教えているが、私の見方は違う。臭いもひどかったはずなのに、何世代も同じ場所を使い続けたのは、貝塚が 「 生活の中で役割を終えたモノの行き先 」 だったからではないか。
縄文人の世界は、人間の力の及ぶ範囲 ( この世 ) と及ばない範囲 ( あの世=自然 ) で構成されていた。遺体もゴミも等しく 「 あの世へ旅立つモノ 」 だった。貝塚に投棄する際は 「 送り出す 」 儀式を行ったのだろう。
狩猟や出産の際は、逆に 「 迎い入れる 」 儀式を行った。調理も儀式の一つ。縄文土器の実用性を無視した装飾は、あの世から来た食材がこの世に迎え入れられるため、姿を変えつつある過程を表現していると思われる。
「 迎え入れる 」 「 送り出す 」 価値観は、自然に依存する狩猟採集民ならではの思想だ。食料を自ら栽培するようになった弥生時代以降は 「 自分たちで全て処理できる 」 と思い込むようになった。
◎ 地に足つけた景観へ:
被災地の方々が元の場所に住みたいと願うのは当然だが、悲劇を繰り返さないように今後の地域デザインを考える必要がある。復興策に、縄文人の 「 広く薄く 」 取り込むべきだ。
今回の震災のような1000年に1度の事象を考えるのは、長いスパンで物事を見る考古学者や歴史学者の役割だ。人々が悲しみを乗り越え、地に足をつけた景観をどう造っていくのか見つめ続けることが、大事な仕事だと考えている。
( 総合地球環境学研究所准教授 内山純蔵。 日経、文化より抜粋 )
● 私(増澤)思いますに、効率化を求めるあまり、自然への畏敬の念を忘れてしまった現代人。天災にめげず生き抜いていくためにも、 いなす → 同化 → 共存 の仕方を学ぶべきであろう。自然の力を軽んじ、自分たちの力で切り開いてきたとの思い込み驕りが、時に数百年のスパンで訪れる災害に打ちのめされる。
新築を含め建築物は地面の上に載って建っています。後々の建物や造成地面・樹木にカムフラージュされて元々の地勢というか地成りが隠されていることが多く、埋め立て等はその顕著な例であり、時には鳥の目になり風や水の流れや、日向きまでも頭に入れて建築を含めたランドスケープデザインを考えなければいけない。
自然をコントロールしたような錯覚、自然の上を行くような思い上がりを糺し、人間も自然の一部としての生き物であるという認識に立てば、譲り合い調和を求めることこそが、 “ 水と緑の惑星 ” に住み続けることの出来る唯一の手立てであることがわかる。
『 地球・・・唯一・無二 』 なるもの。
自然を家畜化した里山の思想を大切にして、広く薄く協力して住まう。自然を謳歌して、自然と同化して生活する。そんな海・山・川・里山と田畑・住まい、その有機的つながりの中にこそ、これからの日本の観光の有るべき姿が垣間見える。そこを訪れる世界の観光客はそんな景観にいやされ感動する。
観光地松島は小さな島々が湾内に点在し、それが緩衝材になり津波の大きな被害から免れた。地元の旅館のオーナーは風光明媚な自然が与えてくれた観光資源が、我々を救ってくれた。だからこの自然を大切にしたい、と涙心に語ってくれた。
そして伊達政宗はこの松島の瑞巌寺を、挙兵のための出陣式の場所に選んだという、過去の史実の洞察を含め、歴史認識を伴った周到さが窺える。たいしたものだ。
そんな折、丁度先日、西の方の旅館のオーナーからFAXが入った。海の近くの一箇所に数軒の旅館を持っている旅館のリスク回避の為に、関東圏の山の温泉地に系列の宿を作りたいという主旨。ちょっと性急な感じがしないではないが、早速意を汲んで動き出さねばと思っている。・・・こういう話は初めてだ。

東日本大震災を経て後、
松島湾は縄文時代と同じ風景を今でも見ることができる、全国でも貴重な地域だ。この湾周辺は縄文時代以降、海面が下がるのと同じペースで地盤が沈下したため、海岸線が変わっていない。
それもあって松島湾にある里浜貝塚や大木囲貝塚など7000〜3000年前の遺跡を、私は20年以上調査してきた。
この周辺の貝塚は海岸沿いにあるように見える。しかし実際は標高15〜30メートルの高台にあり、今回の大津波の被害を逃れた。縄文時代の集落の大半は、このような海と山の “ 接点 ” にあり、発掘しても地震を除けば大災害の被害は見当たらないのが特徴だ。
もっとも、縄文人が防災を考慮に入れていたとは必ずしもいえない。狩猟、漁猟、木の実拾いと、より多くの場所に行きやすい場所に住んだだけだ。自然に 「 広く薄く 」 依存し、いわば職住分離だったことが災害に強い “ まちづくり ” につながったのだろう。

対照的なのが弥生時代以降の集落だ。発掘すると、洪水や津波など大災害の跡がしばしば見つかる。弥生時代の水田跡である仙台市の沓形遺跡が一例だ。海岸から4キロ離れているにもかかわらず、その周辺は今回の津波で大きな被害を受けた。約2000年前にも大きな津波を受けた痕跡がある。その後耕作が再開されたのは4世紀。いったん断絶した水田が復活するのに数百年を要したことになる。
弥生時代に農耕が始まると、水田適地や交易拠点など特定の場所に多大に投資して、 「 狭く濃く 」 利用するようになる。生活の中心と仕事場も一致。生産性は上がったが、災害には弱くなった。まさに 「 一所懸命 」 だ。しかも何度も同じ災害に見舞われる傾向がある。
● 私(増澤)思いますに、海に面した河川沿いの扇状地に住まいと田畑を同居させ、効率化を図った。災害には海・河の護岸で対処し、あたかも自然災害を克服したかに見えた・・・しかし今回の大津波である。
◎ 人の力の限界を意識:
縄文時代と弥生時代以降の自然観が大きく異なる。その象徴が貝塚だ。集落のすぐ隣にあり、墓地として遺体も埋葬された。教科書では 「 当時のゴミ捨て場 」 と教えているが、私の見方は違う。臭いもひどかったはずなのに、何世代も同じ場所を使い続けたのは、貝塚が 「 生活の中で役割を終えたモノの行き先 」 だったからではないか。
縄文人の世界は、人間の力の及ぶ範囲 ( この世 ) と及ばない範囲 ( あの世=自然 ) で構成されていた。遺体もゴミも等しく 「 あの世へ旅立つモノ 」 だった。貝塚に投棄する際は 「 送り出す 」 儀式を行ったのだろう。
狩猟や出産の際は、逆に 「 迎い入れる 」 儀式を行った。調理も儀式の一つ。縄文土器の実用性を無視した装飾は、あの世から来た食材がこの世に迎え入れられるため、姿を変えつつある過程を表現していると思われる。
「 迎え入れる 」 「 送り出す 」 価値観は、自然に依存する狩猟採集民ならではの思想だ。食料を自ら栽培するようになった弥生時代以降は 「 自分たちで全て処理できる 」 と思い込むようになった。
◎ 地に足つけた景観へ:
被災地の方々が元の場所に住みたいと願うのは当然だが、悲劇を繰り返さないように今後の地域デザインを考える必要がある。復興策に、縄文人の 「 広く薄く 」 取り込むべきだ。
今回の震災のような1000年に1度の事象を考えるのは、長いスパンで物事を見る考古学者や歴史学者の役割だ。人々が悲しみを乗り越え、地に足をつけた景観をどう造っていくのか見つめ続けることが、大事な仕事だと考えている。
( 総合地球環境学研究所准教授 内山純蔵。 日経、文化より抜粋 )
● 私(増澤)思いますに、効率化を求めるあまり、自然への畏敬の念を忘れてしまった現代人。天災にめげず生き抜いていくためにも、 いなす → 同化 → 共存 の仕方を学ぶべきであろう。自然の力を軽んじ、自分たちの力で切り開いてきたとの思い込み驕りが、時に数百年のスパンで訪れる災害に打ちのめされる。
新築を含め建築物は地面の上に載って建っています。後々の建物や造成地面・樹木にカムフラージュされて元々の地勢というか地成りが隠されていることが多く、埋め立て等はその顕著な例であり、時には鳥の目になり風や水の流れや、日向きまでも頭に入れて建築を含めたランドスケープデザインを考えなければいけない。
自然をコントロールしたような錯覚、自然の上を行くような思い上がりを糺し、人間も自然の一部としての生き物であるという認識に立てば、譲り合い調和を求めることこそが、 “ 水と緑の惑星 ” に住み続けることの出来る唯一の手立てであることがわかる。
『 地球・・・唯一・無二 』 なるもの。
自然を家畜化した里山の思想を大切にして、広く薄く協力して住まう。自然を謳歌して、自然と同化して生活する。そんな海・山・川・里山と田畑・住まい、その有機的つながりの中にこそ、これからの日本の観光の有るべき姿が垣間見える。そこを訪れる世界の観光客はそんな景観にいやされ感動する。
観光地松島は小さな島々が湾内に点在し、それが緩衝材になり津波の大きな被害から免れた。地元の旅館のオーナーは風光明媚な自然が与えてくれた観光資源が、我々を救ってくれた。だからこの自然を大切にしたい、と涙心に語ってくれた。
そして伊達政宗はこの松島の瑞巌寺を、挙兵のための出陣式の場所に選んだという、過去の史実の洞察を含め、歴史認識を伴った周到さが窺える。たいしたものだ。
そんな折、丁度先日、西の方の旅館のオーナーからFAXが入った。海の近くの一箇所に数軒の旅館を持っている旅館のリスク回避の為に、関東圏の山の温泉地に系列の宿を作りたいという主旨。ちょっと性急な感じがしないではないが、早速意を汲んで動き出さねばと思っている。・・・こういう話は初めてだ。
Posted by masuzawa05 at
09:49
│Comments(0)







