
2012年05月14日
湯治について
国際観光施設協会の旅館観光地分科会の有志による企画 「 新湯治 」 体験会があった。東鳴子温泉の大沼旅館さんに二泊三日でお邪魔し、一汁三菜コース ( 一泊¥8,500円 )、五穀飯を食べての温泉三昧に出掛けた。地酒をいただき、湯治とは程遠い? 美味しい旅だった。
ちなみに、観光交流空間のまちづくり研究会の夏会は長野県別所温泉で開催されました。私なりの 「 湯治の新しい形 」 を探りたいと思っていますがなかなか思うようには進んでいません。
国際観光交流が進んでいる昨今、日本全国に点在している温泉場 ( おんせんば )の復活・復権を図りたい。・・・これからの温泉宿の有り様に思いを馳せる私です。

○ これは陸羽東線・御殿湯の外観です



○ 東鳴子の旅館街です


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● 通りで見かけたコンクリート打放しの郵便ポストカバー、なかなかです。

◎ 湯治とは:温泉地に長期間(少なくとも一週間以上)逗留して特定の疾病の温泉療法を行う行為である。日帰りや数泊で疲労回復の目的や物見遊山的に行う温泉旅行とは、区別すべきである。又、農閑期に時間が発生した農民が、蓄積した疲労を癒す目的で湯治を行うようになった。
湯治場は多くの場合、自炊が基本となっている。これは、長期逗留客の金銭的負担軽減という理由もあるが、個々が自分にあった食事を行う必要があった。
そのためお米、味噌、醤油、布団持参の場合もある。惣菜は近所からの調達とする・・・・・・etc。
● いずれにしてもキーワードは “ 健康 ” である。心と体のリラクゼーションとリフレッシュをもたらす、楽しみな逗留でなければならない。そこに湯治の新しい形があり、同時に温泉場の活性化が図れる。新湯治と一言で括れない多様な要素をどうからめ、夫々の地域特有のオリジナリティーを発揮した形が創れるか。
● 地域の食(農業・漁業)、環境、施設をからめたロハス的業態の創出が必要で、低成長・熟成・生きがいをベースに文化の華を咲かせなければならない。
● 3万人の自殺者を出す国、飽食が病人を増産する国、お金をためるのが趣味の国、もっとゆっくりでもいいんじゃないかと思う私、湯足りた生活を送ろうではありませんか。
● 町並みの第一印象として、寂れた感じではいけない。静かなそのままの自然を残しつつ、鄙のまちなみに植栽と散策路の整備を施す。ヒトの息づかいが感じられる、心楽しい赤いあかりの灯る小路の創出が急務である。
以下に大沼旅館さんの湯治に関する考え方と、私(増澤)の感想を述べます。
◎ 湯治 「 TOJI 」
I went to Toji at Narugo onsen in Miyagi pref in north east Japan from 6th to 8th March.
Japanese meaning of Toji is hot−spring cure.
I quoted from Mr Ohnuma :
“I believe Toji is in an act of regaining
One’s ownself in which hyumans,
Ourselves, a part of nature,
Receive the power of the earth.
By soaking in an onsen,
The embodiment of the great nature “
Shinji Ohnuma ( 5th generation owner, Ryokan Ohnuma )
湯治とは
自然の一部である人間が
温泉という大自然に浴することで
大地からの力をいただき
本来の自分を取りもどすことと *スケッチ・12いれる
私は考えています
旅館大沼 五代目湯守
大沼伸治

I felt refreshed and my mind and body relaxed by the hot_springs.
We shouldn’t forget the famous Japanese culture of 「TOJI」
● 私(増澤)、色々旅館作り ( 湯治宿も含め) について考え始めています。温泉街が活性化しないことには始まらないと思い、ある場所で小さな企みをしています。そのうち報告しますので乞うご期待!
Posted by masuzawa05 at
08:55
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2012年05月07日
NARASIA(ならじあ)―日本と東アジアネットワーク
● 奈良のことを知りたいと思っていて、NARASIAという本に出会った。 ( NARASIAの件はMY・ブログ:ちょっといい話・その9を参照されたし )
地中海文化圏があったように、東アジアには日本海をめぐる一大文化圏があり、そのたどり着いた先が日本であった。そのことを含めて、先日の日経の経済コラムに、松岡正剛さんのこんな記事が出ていたので紹介したい。
○ 日本は1300年前に東アジア文化を集約
○ 平城京モデルは戦後の日本にも連綿と続く
○ アジア的価値観はさらに多様に広まる必要

◎ 日本の歴史は東アジアの風土・社会・制度・経済・文化の影響と無縁ではいられない地政的な立地をもってきた。そこには植相、人口密度、食べもの、肌の色、住まいや建具、漢字文化、交易事情、美術様式など、多くのコトやモノが一衣帯水となっていた。
大陸・半島・海洋・列島はひとつながりなのである。このことはいまでも、中国大陸からの黄砂が日本に降ることでも、鳥インフルエンザが大陸と海と日本列島をつないでいることでも、また竹島や尖閣諸島の問題をみてもわかる。日本海を中心として東アジア地図の南北を逆さまに回転させたいわゆる 「 環日本海諸国図 」 を見れば、もっと実感できる。古来、シルクロードが奈良とつながっていることはよく知られてきたけれど、そのつながりは1300年前からすでに絹や布や文様だけのつながりではなかったのだ。
―中略―
しかしその後の日本は、そうした共通性からの離脱や自立をはかり、漢字から仮名を生み出し、稲作社会を定着させ、藤原時代には国風化によって美意識を磨き、徳川の鎖国期では国産の産物を充実させ、さらには儒学を日本化し、ついに幕末維新をまたいでは西洋列強のシステムとテクノロジーのまるごと導入に踏み切った。それが過剰なナショナリズムと大アジア主義を蔓延させて、結果として太平洋戦争とその敗戦に至ったことはよく知られている。
かくして現在の日本は米軍基地があり、東アジアとの交流よりもグローバルスタンダードを全面的に受容する国になっている。では平城京モデルはあのまま歴史のかなたに死んでしまったのかといえば、そんなことはない。
◎ 共通の価値観、確認を:
一、 東アジアと日本はユダヤ・キリスト教・イスラームの一神教社会とはきわめて異なる多神多仏の共存を許容した。このことは、いまなお 仁・道・空・無・大同小異・和光同塵・あいだがら・人情・メンツ・仲間うち などのコンセプトが生きていることでもわかる。加えて日本はここから神仏習合という類まれなしくみをつくりだした。初詣は神社でも寺院でも可能になっているし、神社にも寺院にもヒンドゥの神々や密教の諸仏がまじっているままなのだ。

二、 漢字文化圏や仏教文化圏が多重に組み合わされる発信源となった平城京モデルからは、「 和魂漢才 」 という方法が生まれた。それが建築から茶の湯まで、尺度から浮世絵まで、門前町から商人の工夫まで及んで、その後はそこに 「 和魂洋才 」 や 「 亜魂和才 」 が混入していきながらも、なおホテルと和風旅館の、洋画と日本画の、世界料理と日本料理の、西洋医学と漢方の、マーケットの併存などとして今日に至っている
三、 平城京には東アジアから技術が入って間もなくして多くの仏師が誕生して、やがて寄木作りなどの独特の才能を発揮していったのだが、同様のことが鍛冶から鉄鋼技術へ、漬物から醗酵技術へ、陶芸から化学反応技術へ、機織から繊維技術へといった多くの場面での大きな技術トランスファー(移転)の準備となってきた。トヨタが織機から自動車に発展していったことを含めて、こうしたアジア→日本→世界、の技術ベクトルは、今後も 「 世界→アジア→日本 」 「 日本→世界→アジア 」 といった組み換えや逆転をおこしながら、新たに活性化する可能性が高い。
四、 東アジアには民族・地域・資源の多様性が著しく、それを生かすことが東南アジア諸国連合(ASEAN)から東アジアの各国のお国自慢になっているのだが、これらを工場化や製品化するにあたっては日本人が示すクオリティーコントロールが抜群の説得力を持ってきた。それは戦後のQC(品質管理)運動に顕著だっただけではなく、そもそも近世日本のポータブル化・ショートサイズ化の技能に発揮され(小袖・箱組・家具など)、さらにはトランジスターラジオから半導体を経て1980年代軽薄短小ブームにも開花していたともいうべきなのだ。
五、 東アジアでは華人ネットワークを筆頭とする 「 横の連携 」 が見逃せないのであるけれど、これは日本の中世の職人ネットワークにも、また奈良時代からあった 「 結(ゆい) 」 がヴァージョンをふやして、 「 講・座・連・組・社中 」といった 「 やわらかい組織 」 になっていったことにもあらわれている。これからの東アジアと日本のあいだで求められるのは、今日の法令順守 (コンプライアンス) にもとづく監視型の組織と、伝統的な柔組織とが自在な組み合わせをさまざま試すことであるかもしれない。
六、 現在の東アジアの経済発展は欧州連合(EU)の政治・制度先行型に対して市場主導型の経済統合スタイルと呼ばれているのだが、実は日本は平清盛の日宋貿易、足利義満の日明貿易や日朝貿易、徳川家康の日蘭貿易など、以前から2国間取引がめっぽう得意だったはずなのだ。それがいまや新たな自由貿易協定(FTA)などにおける日本のイニシアチブとして期待されているとも再認識すべきなのである。
○ 以上はレポートが示すいくつかの例示に過ぎないが、ことほどさように平城京モデルにひそむしくみやその後のNARASIA的なネットワークの歴史的有効性はいまこそ注目されるべきものだった。
○ しかしながら、これらのことからただちに東アジア共同体やアジア通貨基金(AMF)の青写真ができるかといえば、まだそういうわけにはいかない。先ずは東アジアと日本のあいだをつなぐ価値観、制度感、コミュニケーション力などを根底に戻って相互確認し、これを高めていく必要がある。
( 松岡正剛―平城京モデルに学べ より抜粋 )
● アジアの中の日本を考えていて、歴史に学び、そのつながりの深さを思うのだが、それぞれに価値観と習い性の違いが露呈することが多い。例えば我々が生業としている日本旅館の設計についても、日本の旅館文化が一時的に物見遊山なお客様に受け入れられるのではなく、アジアの国々の日常生活文化として根付く為にはソフトもハードも含めて、臨機応変な国情に合った対応が求められる。
● 日本国内の旅館・宿文化も、時代のグローバル化に伴ってのハード・ソフトにわたる見直しと工夫が求められている。
● 成長著しいアジアにあって 「 衣・食・住 」 を満たしつつ、同時進行的に余暇を過ごすリフレッシュ手段として、日本的宿文化が定着し広がることをライフワークとしたい。
地中海文化圏があったように、東アジアには日本海をめぐる一大文化圏があり、そのたどり着いた先が日本であった。そのことを含めて、先日の日経の経済コラムに、松岡正剛さんのこんな記事が出ていたので紹介したい。
○ 日本は1300年前に東アジア文化を集約
○ 平城京モデルは戦後の日本にも連綿と続く
○ アジア的価値観はさらに多様に広まる必要

◎ 日本の歴史は東アジアの風土・社会・制度・経済・文化の影響と無縁ではいられない地政的な立地をもってきた。そこには植相、人口密度、食べもの、肌の色、住まいや建具、漢字文化、交易事情、美術様式など、多くのコトやモノが一衣帯水となっていた。
大陸・半島・海洋・列島はひとつながりなのである。このことはいまでも、中国大陸からの黄砂が日本に降ることでも、鳥インフルエンザが大陸と海と日本列島をつないでいることでも、また竹島や尖閣諸島の問題をみてもわかる。日本海を中心として東アジア地図の南北を逆さまに回転させたいわゆる 「 環日本海諸国図 」 を見れば、もっと実感できる。古来、シルクロードが奈良とつながっていることはよく知られてきたけれど、そのつながりは1300年前からすでに絹や布や文様だけのつながりではなかったのだ。
―中略―
しかしその後の日本は、そうした共通性からの離脱や自立をはかり、漢字から仮名を生み出し、稲作社会を定着させ、藤原時代には国風化によって美意識を磨き、徳川の鎖国期では国産の産物を充実させ、さらには儒学を日本化し、ついに幕末維新をまたいでは西洋列強のシステムとテクノロジーのまるごと導入に踏み切った。それが過剰なナショナリズムと大アジア主義を蔓延させて、結果として太平洋戦争とその敗戦に至ったことはよく知られている。
かくして現在の日本は米軍基地があり、東アジアとの交流よりもグローバルスタンダードを全面的に受容する国になっている。では平城京モデルはあのまま歴史のかなたに死んでしまったのかといえば、そんなことはない。
◎ 共通の価値観、確認を:
一、 東アジアと日本はユダヤ・キリスト教・イスラームの一神教社会とはきわめて異なる多神多仏の共存を許容した。このことは、いまなお 仁・道・空・無・大同小異・和光同塵・あいだがら・人情・メンツ・仲間うち などのコンセプトが生きていることでもわかる。加えて日本はここから神仏習合という類まれなしくみをつくりだした。初詣は神社でも寺院でも可能になっているし、神社にも寺院にもヒンドゥの神々や密教の諸仏がまじっているままなのだ。

二、 漢字文化圏や仏教文化圏が多重に組み合わされる発信源となった平城京モデルからは、「 和魂漢才 」 という方法が生まれた。それが建築から茶の湯まで、尺度から浮世絵まで、門前町から商人の工夫まで及んで、その後はそこに 「 和魂洋才 」 や 「 亜魂和才 」 が混入していきながらも、なおホテルと和風旅館の、洋画と日本画の、世界料理と日本料理の、西洋医学と漢方の、マーケットの併存などとして今日に至っている
三、 平城京には東アジアから技術が入って間もなくして多くの仏師が誕生して、やがて寄木作りなどの独特の才能を発揮していったのだが、同様のことが鍛冶から鉄鋼技術へ、漬物から醗酵技術へ、陶芸から化学反応技術へ、機織から繊維技術へといった多くの場面での大きな技術トランスファー(移転)の準備となってきた。トヨタが織機から自動車に発展していったことを含めて、こうしたアジア→日本→世界、の技術ベクトルは、今後も 「 世界→アジア→日本 」 「 日本→世界→アジア 」 といった組み換えや逆転をおこしながら、新たに活性化する可能性が高い。
四、 東アジアには民族・地域・資源の多様性が著しく、それを生かすことが東南アジア諸国連合(ASEAN)から東アジアの各国のお国自慢になっているのだが、これらを工場化や製品化するにあたっては日本人が示すクオリティーコントロールが抜群の説得力を持ってきた。それは戦後のQC(品質管理)運動に顕著だっただけではなく、そもそも近世日本のポータブル化・ショートサイズ化の技能に発揮され(小袖・箱組・家具など)、さらにはトランジスターラジオから半導体を経て1980年代軽薄短小ブームにも開花していたともいうべきなのだ。
五、 東アジアでは華人ネットワークを筆頭とする 「 横の連携 」 が見逃せないのであるけれど、これは日本の中世の職人ネットワークにも、また奈良時代からあった 「 結(ゆい) 」 がヴァージョンをふやして、 「 講・座・連・組・社中 」といった 「 やわらかい組織 」 になっていったことにもあらわれている。これからの東アジアと日本のあいだで求められるのは、今日の法令順守 (コンプライアンス) にもとづく監視型の組織と、伝統的な柔組織とが自在な組み合わせをさまざま試すことであるかもしれない。
六、 現在の東アジアの経済発展は欧州連合(EU)の政治・制度先行型に対して市場主導型の経済統合スタイルと呼ばれているのだが、実は日本は平清盛の日宋貿易、足利義満の日明貿易や日朝貿易、徳川家康の日蘭貿易など、以前から2国間取引がめっぽう得意だったはずなのだ。それがいまや新たな自由貿易協定(FTA)などにおける日本のイニシアチブとして期待されているとも再認識すべきなのである。
○ 以上はレポートが示すいくつかの例示に過ぎないが、ことほどさように平城京モデルにひそむしくみやその後のNARASIA的なネットワークの歴史的有効性はいまこそ注目されるべきものだった。
○ しかしながら、これらのことからただちに東アジア共同体やアジア通貨基金(AMF)の青写真ができるかといえば、まだそういうわけにはいかない。先ずは東アジアと日本のあいだをつなぐ価値観、制度感、コミュニケーション力などを根底に戻って相互確認し、これを高めていく必要がある。
( 松岡正剛―平城京モデルに学べ より抜粋 )
● アジアの中の日本を考えていて、歴史に学び、そのつながりの深さを思うのだが、それぞれに価値観と習い性の違いが露呈することが多い。例えば我々が生業としている日本旅館の設計についても、日本の旅館文化が一時的に物見遊山なお客様に受け入れられるのではなく、アジアの国々の日常生活文化として根付く為にはソフトもハードも含めて、臨機応変な国情に合った対応が求められる。
● 日本国内の旅館・宿文化も、時代のグローバル化に伴ってのハード・ソフトにわたる見直しと工夫が求められている。
● 成長著しいアジアにあって 「 衣・食・住 」 を満たしつつ、同時進行的に余暇を過ごすリフレッシュ手段として、日本的宿文化が定着し広がることをライフワークとしたい。
Posted by masuzawa05 at
12:34
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2012年05月01日
JAL ( 日本航空 ) の行方
40年程前に、JALパックでヨーロッパへ新婚旅行をした。しばらくして当時の添乗員Kさんが宝塚のスターと結婚したニュースをTVで知り、JAL職員もたいしたものだと思った。Kさんお元気でしょうか。
最近は、かつて娘がグランドホステスとしてANA ( 全日空 ) に勤めていたこともあり、ANAを利用していた。
今回はお世話になっている会社の協力業者の慰労会で、会社更生中のJALに乗っての4泊6日のハワイ旅行をしてきました。お米屋さんや、魚屋さん、肉屋さん、ガス屋さん、金物屋さん等、名前は覚えずとも 「 何屋 」 で顔を繋げた。私は会社御用達の設計屋の立場で和気藹々の賑やかな旅でした。もちろん送客大手・JTBの企画です。
昔に比べ機内はチーフ・キャビンアテンダント数名を除き、アジア系の女性が殆んどで、にこやかに仕切り、サービスも良かったです。
但し、バゲージの重量については帰路でのチェックが厳しく、多分燃費に影響するからだと思うのだが、採算面からそこまでするかと思うほどでした。再建途中としては・・・致し方ないのでしょう。やり方次第では黒字になることをあらゆる面から追求するのは、 “ 利益を出してなんぼの会社 ” ですから当然です。
◎ 頑張ってるな、と気に入ったことが一つありました。
○ 往路のJALの機内パンフレットから:
タイトルは
「ハワイで
何する? 」
What to do in Hawaii ? hints・50 と題して、ハワイの名所旧跡、食材、レストランの写真50が載っています。もちろん地図付です。





● ここからは帰りの機内ですが、FOLLOW UP を忘れません。そこがえらい!
○ 復路のJALの機内パンフレットから:
タイトルは
「 次は
どこ行く? 」
Where to go next ? hints・10 と題して、各国の楽しそうな、又美味しそうな写真の数々と、世界地図に10の国名を記してあります。興奮のほてりを引きずりながらの機中、その一言が旅心をくすぐり次へと誘います。



● 小洒落た小冊子、10センチ角に折り畳んで置いてあります。これならJALは復活できる、そう思った次第です。
( 旅館なんかでも利用できそうな・・・例えば冬のお客さんには、着いた時こんな楽しみがあります・・・。帰るとき、春にはこんなお花見が・・・夏には・・・。四季折々・イベント折々にパソコンで製作出来ますよ、いかがでしょうか。 )
ちなみに、美しいコオリナ・カントリークラブでゴルフをしましたが、先日のLPGAツアー・ロッテチャンピオンシップで宮里藍ちゃんが優勝しました。 「 俺がやった所 」 なんて言いながら、なつかしくTV観戦しました。
スコアーですか・・・?5〜6年ぶりの再チャレンジゴルフですから、未だ言えません。
Posted by masuzawa05 at
10:05
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2012年04月23日
カンディンスキーと青騎士展
1911年ミュンヘン、 「 青騎士 」 の登場は事件だった。

● 個人的なことですが私(増澤)、どうも明るい派手な色が好きなようだ。一番好きな色
は黄色。中国では黄色は日本で言うピンクのイメージで、色のピンクと共に言葉のピンクも表し、少しいやらしげな色らしい。何かの本で読んだことがある。
以下赤、青、橙色。服も、橙色・青・黄色・黒・白etc、チェック柄。赤いズボンも持っている。明るい色の絵を見ていると心が浮き浮きしてくるのが楽しい。

◎ レンバッハハウス美術館所蔵、カンディンスキーと青騎士展 ( Kandinsky and the Blue Rider from the Lenbachhaus、Munich )を三菱一号館美術館に見に行ってきました。
「 青騎士 」 とは、カンディンスキーとマルクの編集により、1912年に出版された芸術年鑑のタイトル。二人は彼らの芸術理念に共鳴した芸術家と共に 「 青騎士 」 を冠した展覧会を組織しました。目に見える形にとらわれず精神的なものを重視し、自由な色彩とフォルムにより描かれた作品はドイツ表現主義の中核となりました。青騎士の活動は第一次世界大戦の影響により短命に終わりましたが、その名は抽象絵画の先駆者カンディンスキーの偉業とともに、20世紀美術の歴史に刻まれています。

画家フランツ・フォン・レンバッハ(1836〜1904)の邸宅であったこの美術館は、芸術運動 「 青騎士 」 のコレクションによって国際的に知られています。
● 抽象画の先駆者というイメージが強かった割には、今回見てみて意外とおとなしいのにびっくりした。それは何故だろうか・・・。
○ 花嫁 ( 彩色ドローイングの典型的な作品 )

○ ガブリエーレ・ミュンターの肖像

● 唯一の肖像画である。写実的であることに心苦しさを感じたのであろうか、彼女に宛てた手紙では、最悪の出来であると告白している。その後暴力的なまでに抽象化された彼女の絵を描いている。
○ ムルナウ近郊の鉄道

○ オリエント風

● 前作の鉄道あたりから、ゆるやかに抽象へと傾斜しているのが判る。
彼は40代前半アルプスのふもとにある自然の美しい街・ムルナウの風景や町なみを描くうちに、鮮やかな色彩や線の勢いだけで絵画が成り立つことに気付いていった。だから良く見れば具象が顔をのぞかせる。その辺がおとなしい抽象画の所以かもしれない。
○ < 秋・機 筺,里燭瓩僚作

○ < 印象・掘 福.灰鵐機璽函 法

● ここらあたりからかなりの大胆さが見える。中央の黒いピアノと聴衆の山状の黒。白い縦の線は空間を構成する柱だという。
○ コンポジション・擦里燭瓩僚作・2

● またまた、この辺に来ると彼らしいと思うのだが、研究者たちは 「 最後の審判 」・「 復活 」・「 ノアの洪水 」・「 愛の園 」 とか評しているが、
彼はこう述べている: 「 具体的な対象を持たず、心の趣くまま、ごく自然に自ら生じたものである 」 と。
色々な色の渦に飲み込まれながら会場を一泳ぎ、心地よい色酔いにクラクラ。

● 個人的なことですが私(増澤)、どうも明るい派手な色が好きなようだ。一番好きな色
は黄色。中国では黄色は日本で言うピンクのイメージで、色のピンクと共に言葉のピンクも表し、少しいやらしげな色らしい。何かの本で読んだことがある。
以下赤、青、橙色。服も、橙色・青・黄色・黒・白etc、チェック柄。赤いズボンも持っている。明るい色の絵を見ていると心が浮き浮きしてくるのが楽しい。

◎ レンバッハハウス美術館所蔵、カンディンスキーと青騎士展 ( Kandinsky and the Blue Rider from the Lenbachhaus、Munich )を三菱一号館美術館に見に行ってきました。
「 青騎士 」 とは、カンディンスキーとマルクの編集により、1912年に出版された芸術年鑑のタイトル。二人は彼らの芸術理念に共鳴した芸術家と共に 「 青騎士 」 を冠した展覧会を組織しました。目に見える形にとらわれず精神的なものを重視し、自由な色彩とフォルムにより描かれた作品はドイツ表現主義の中核となりました。青騎士の活動は第一次世界大戦の影響により短命に終わりましたが、その名は抽象絵画の先駆者カンディンスキーの偉業とともに、20世紀美術の歴史に刻まれています。

画家フランツ・フォン・レンバッハ(1836〜1904)の邸宅であったこの美術館は、芸術運動 「 青騎士 」 のコレクションによって国際的に知られています。
● 抽象画の先駆者というイメージが強かった割には、今回見てみて意外とおとなしいのにびっくりした。それは何故だろうか・・・。
○ 花嫁 ( 彩色ドローイングの典型的な作品 )

○ ガブリエーレ・ミュンターの肖像

● 唯一の肖像画である。写実的であることに心苦しさを感じたのであろうか、彼女に宛てた手紙では、最悪の出来であると告白している。その後暴力的なまでに抽象化された彼女の絵を描いている。
○ ムルナウ近郊の鉄道

○ オリエント風

● 前作の鉄道あたりから、ゆるやかに抽象へと傾斜しているのが判る。
彼は40代前半アルプスのふもとにある自然の美しい街・ムルナウの風景や町なみを描くうちに、鮮やかな色彩や線の勢いだけで絵画が成り立つことに気付いていった。だから良く見れば具象が顔をのぞかせる。その辺がおとなしい抽象画の所以かもしれない。
○ < 秋・機 筺,里燭瓩僚作

○ < 印象・掘 福.灰鵐機璽函 法

● ここらあたりからかなりの大胆さが見える。中央の黒いピアノと聴衆の山状の黒。白い縦の線は空間を構成する柱だという。
○ コンポジション・擦里燭瓩僚作・2

● またまた、この辺に来ると彼らしいと思うのだが、研究者たちは 「 最後の審判 」・「 復活 」・「 ノアの洪水 」・「 愛の園 」 とか評しているが、
彼はこう述べている: 「 具体的な対象を持たず、心の趣くまま、ごく自然に自ら生じたものである 」 と。
色々な色の渦に飲み込まれながら会場を一泳ぎ、心地よい色酔いにクラクラ。
Posted by masuzawa05 at
10:42
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2012年04月16日
和食のビュッフェ
以前取り上げた、恵比寿ウエスティンのビュッフェ。
いつものガーデンテラスでの和洋ビュッフェも素晴らしいのだが、最近和食堂 「 舞 」 でも始めた。 例えばシェラトン都ホテルの村野藤吾設計の和食・大和屋三玄の朝食など、ホテルの和朝食はセット出しで、素晴らしいのだが、 今回は恵比寿ウエスティン 「 舞 」 の和朝食 「 スーパーフード・朝食ビュッフェ 」 とやらを食べてみた。


これは私が選んだものです

個別のアップです



食べたもののスケッチです

● 一つ一つが手作りされていて、熱いものは熱く、冷たいものは冷たく、それにプラスする目を引くものが2〜3品。薄味だがしっかりと出汁をとってあり、心がこもっていて味付けがいい。8:30頃から満席で、当日は中華系のお客さんが五割強でした。食べるものをチョイスできてゆっくり和朝食を味わえるこの場所は、外国のお客様には狙い処なのだろう。定番の卵と鮭、鰆の西京焼きが旨い、柘榴のジュースは初めて飲んだ。
所内で写真を見せたところ、ヨーグルトがケースそのままではなく、綺麗な他の器に入れるか、既製品ではなく手作りのものを違う演出・器で出さないんでしょうか!? との質問があった。言われてみればその通りと思うが、いかがでしょうか。
いずれにしても土曜日満館の繁盛ホテルでした。
近頃の旅館もビュッフェは盛りだが、出せばいい・並べればいいと言うような形だけのものが多いように思う。心を込めなければやる意味が無い。
● 各テーブルに黒文字が粋に並べられてあった。

● 調理法いろいろ

オリジナルなものを考えましょう
和食スーパーフード・朝食ビュッフェ、ネーミングもいい、旅館でいかがですか!
Posted by masuzawa05 at
09:03
│Comments(0)
2012年04月09日
ウイリアム・エグルストン展 IN・原美術館

◎ WILLIAM EGGLESTON
アメリカ南部テネシー州、メンフィスに生まれた。
カラー写真を芸術的表現の域にまで高めた作家の一人として名声を確立する。1998年には写真界のノーベル賞といわれ、最高の栄誉とされる 「 ハッセルブラッド賞 」 を受賞。
○ 晴れた空なら青、木の葉は緑、完熟トマトは赤と、自然には固有の色彩がある。が、色はたえず移ろい、表情が千変万化する。人工の色彩でもいつも同じに見えるとは限らない。そういう光と色の変幻自在の魅力をカラー写真に写して見せてくれる。
―日経より
● 一見、ポップアートのような作品、よく見れば写真である。
写真が絵のように見える不思議も執拗にファインダーで映像を捜し求めれば有りうることだが、写真を絵画的芸術領域まで見せるには光の助けを借りなければできないし、その一瞬を追い求める執拗な忍耐力に脱帽。
絵画も絵の具で光を演出することにより深みが増す。
どちらも “ ひかり ” が主役で、そのことを納得しえたひと時でした。
彼には、作品としてのカラー写真を芸術的表現の域まで高めたという功績があるが、その裏には執拗に被写体に向かうひたむきな姿があった。
◎ 光と色、変幻自在の魅力













○ 美術館内部のパイプシャフト内の唯一の造形作品 その題名もズバリ「 白い椿 」。

● 初めて行った原美術館 北品川、御殿山の邸宅街に在る
○ 玄関周り



○ 中庭周り


○ 中庭から見る御殿山ヒルズの高層住宅

● 御殿山といえば、東海道新幹線品川手前で見えるこのビル 「 ごてんやま 」 と読むのだが、今時の若い女の子
「 おとのさん (御殿さん) 」 と読んだという。ウィットに富んだ話、急に思い出してほくそ笑む私。
原家の瀟洒な邸宅を美術館に改装し使用している ( 銀座の和光本館の設計者 渡辺仁の設計 )。
レストランでTEAをやりながら眺めると、なにやらランチも美味しそうだ。次の機会には冷たい白ワインでも飲みながらパスタを食べよう。
Posted by masuzawa05 at
13:27
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2012年04月02日
ラムネ
RAMUNE
( Sweet flavored soda in a Codd- neck bottle )
ラムネ

● 私(増澤) ラムネの英文解釈の a Codd-neck bottle のCodd の意味を勝手に「 括れた 」と解釈して辞書を散々探しても出てこない。
思案に暮れていたのだが、以下のアーサー・ビナードさんの解説文中にある発明者ハイラム・コッド氏のコッドにやっと辿り着いた。大文字のCは固有名詞のC、 『 コッド氏の考えた(括れた)首の壜 』 とでも訳したら良いのでしょう。neckには狭くなるとかの意味もあり、派生して括れたという意味も読み取れる。コッドさんの作った何々と言うことでしょう。
兎も角、間違いの前提にはラムネは日本のもので、こんな壜を作るのは日本人に違いないという先入観念があった。
( 英国人 Hiram Codd 1872年生まれ )
◎ 詩人のアーサー・ビナードさんの英訳しにくい日本の言葉より:
昔々、英語の lemonade を 「 ラムネ 」 と片仮名に置き換えた日本人は、耳がよかった。ネイティブの発音をコンパクトに模写して、 「 レモネード 」 よりずっと忠実だ。ただ、レモンの果汁に砂糖と氷水を加えて飲む lemonade と、ガラス玉の栓をプシュッと開けて飲む炭酸入りのラムネは、まるで別物。
近年、イチゴ味の 「 赤いラムネ 」 や 「 ブルーハワイ 」 など、レモンには無縁のフレーバーも発売されている。つきつめると、19世紀に英国人ハイラム・コッドが発明したあの括れた瓶に詰めてあることが、ラムネたる条件だ。
● ラムネが最初に日本にお目見えしたのは、マシュー・ペリーが浦賀に来航した時(1853年)で、ペリー艦隊の乗組員が日本側の交渉役を接待しようと炭酸水を振舞ったとあります。
(ラムネの製造は中小企業分野調整法の法律に基づき、中小企業に独占的に生産されており大企業は製造に参入できない)

● 「 ラムネのあじわい 」 賛歌:

石垣に咲くおしろい花の匂い
黒いつぶつぶの種を割って、中から出てきた白粉を鼻筋に塗った
子供の頃の思い出の日々
海際の一段高い眺めのよい境内
潮風にさらされた神社のようなお寺
狂おしいような日盛りの余熱が残る
玉石混じりの凸凹なたたきに繰広げられた
賑やかな金魚掬いや仮設の屋台
売らんかな、の強面のテキヤのお兄さん
カーバイドの灯かりに照らされた
日焼けしてパンパンにふくれた赤ら顔の子ら
ソース焼きそばのゆらめく湯気のにおい
水・ヨーヨーのはじける音
セルロイドのひょっとこの仮面
走馬灯のようにめぐる幼き日のこと
セピア色のお晴れの舞台
縁日・・・・・甘苦いラムネの味。
( Sweet flavored soda in a Codd- neck bottle )
ラムネ

● 私(増澤) ラムネの英文解釈の a Codd-neck bottle のCodd の意味を勝手に「 括れた 」と解釈して辞書を散々探しても出てこない。
思案に暮れていたのだが、以下のアーサー・ビナードさんの解説文中にある発明者ハイラム・コッド氏のコッドにやっと辿り着いた。大文字のCは固有名詞のC、 『 コッド氏の考えた(括れた)首の壜 』 とでも訳したら良いのでしょう。neckには狭くなるとかの意味もあり、派生して括れたという意味も読み取れる。コッドさんの作った何々と言うことでしょう。
兎も角、間違いの前提にはラムネは日本のもので、こんな壜を作るのは日本人に違いないという先入観念があった。
( 英国人 Hiram Codd 1872年生まれ )
◎ 詩人のアーサー・ビナードさんの英訳しにくい日本の言葉より:
昔々、英語の lemonade を 「 ラムネ 」 と片仮名に置き換えた日本人は、耳がよかった。ネイティブの発音をコンパクトに模写して、 「 レモネード 」 よりずっと忠実だ。ただ、レモンの果汁に砂糖と氷水を加えて飲む lemonade と、ガラス玉の栓をプシュッと開けて飲む炭酸入りのラムネは、まるで別物。
近年、イチゴ味の 「 赤いラムネ 」 や 「 ブルーハワイ 」 など、レモンには無縁のフレーバーも発売されている。つきつめると、19世紀に英国人ハイラム・コッドが発明したあの括れた瓶に詰めてあることが、ラムネたる条件だ。
● ラムネが最初に日本にお目見えしたのは、マシュー・ペリーが浦賀に来航した時(1853年)で、ペリー艦隊の乗組員が日本側の交渉役を接待しようと炭酸水を振舞ったとあります。
(ラムネの製造は中小企業分野調整法の法律に基づき、中小企業に独占的に生産されており大企業は製造に参入できない)

● 「 ラムネのあじわい 」 賛歌:

石垣に咲くおしろい花の匂い
黒いつぶつぶの種を割って、中から出てきた白粉を鼻筋に塗った
子供の頃の思い出の日々
海際の一段高い眺めのよい境内
潮風にさらされた神社のようなお寺
狂おしいような日盛りの余熱が残る
玉石混じりの凸凹なたたきに繰広げられた
賑やかな金魚掬いや仮設の屋台
売らんかな、の強面のテキヤのお兄さん
カーバイドの灯かりに照らされた
日焼けしてパンパンにふくれた赤ら顔の子ら
ソース焼きそばのゆらめく湯気のにおい
水・ヨーヨーのはじける音
セルロイドのひょっとこの仮面
走馬灯のようにめぐる幼き日のこと
セピア色のお晴れの舞台
縁日・・・・・甘苦いラムネの味。
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09:01
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2012年03月27日
代官山 蔦屋書店へ行ってきました
自宅の居間が “ café ” 付の本屋になった。
外観:


1F,2F プラン:


● 二階建ての長方形の三つの建物を、少しずつずらしながら配置し、二階で外廊下にて繋がっている。中央棟の二階の書籍空間の中に、核となるゆったりとしたcafeラウンジが拡がり、全体の構成はイレギュラーにcafeと読書スペースが書棚の中に差し込まれている。自宅の延長上にある本を選べる居間がある本屋とでも言いましょうか。
シンプルで分かりやすく、親切で、デザイン化された空間にありがちな硬さがなく、アットホームだ。
渡り廊下: ここは外廊下なのだが、内廊下だと思っていたので意外だった。東京が大雪の翌日だったので、ビショビショを室内に持ち込むので・・・? だ。
ここで四季の外気に触れるのもいいような気もするが、なにか法的規制でも有るのだろうか・・・?!

吹き抜け階段:

cafeラウンジ: ここでハヤシライスのランチを摂る。ライスがキューブなのだ! キュービックな建物に合わせ、そこまでやるかと笑ってしまう。



映画コーナー:


音楽:


文具:

旅行:

メインは本、本、本:




外部既存樹木:


● 透けた空間に蔵書の山、手にした本を置いて、椅子に腰掛けコーヒーブレイク、図書館風喫茶店。ちょっと散歩がてら出掛けたくなる雰囲気がいい。
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09:15
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2012年03月19日
今どきの旅館に必要なもの・その22
新聞の文化欄にイギリスの小村の景観に惚れ込んで、その地に暮らすことになった日本人アーティスト 志村 博さんによる英国詩人の紹介記事が目に留まった。
● 私(増澤)思いますに、英国に見られる景観保存の考え方が、今こそ日本の各地における自然保護に必要だと思ったからです。
スローライフに欠くべからざるものとは!
『 そのままの自然をいかにそのままで残すか! 』 その一点に集約される。
あるがままの自然を残しつつ、その中に点在する温泉宿の佇まいに人は自ずと集まるだろう。

◎ 英国の詩人ルパート・ブルックさんの代表作から:
教えてほしい。
そこでは、まだ、あの美しさに出会えるのか
あの確かさや、あの穏やかさにも
嘘や真実、あの痛みを忘れさせてくれた遥かなるメドーよ
まだそこに―
「 旧牧師館―グランチェスター 」 の一節(志村 博訳)
○ グランチェスター・メドーの四季。

● 私(増澤)もう一度口ずさむ
「 教えてほしい。
そこでは、まだ、あの美しさに出会えるのか
あの確かさや、あの穏やかさにも・・・ 」
◎ 志村さん曰く:
ケンブリッジの中心から南約3キロの場所にある小村 グランチェスター・メドーには、昔から多くの文人や学者が集まった。時に独創やひらめきの源泉ともなったため 「 グランチェスターを語らずにケンブリッジを語ることはできない 」 といわれる。
世界的に有名な学園都市ケンブリッジは人口わずか10万の小都市である。そのうち大学人口は1万1千人。命がけで守ったこの地の景観が、ケンブリッジ大学の学生たちの心の拠り所となり、自然科学や芸術の分野で世界的な功績を数多く生み出した。
もう一方の雄、オックスフォードは人口40万。オックスフォード大学は名うての政治家を世に送り出した。オックスフォード大学の方が外の世界に対して開かれた大学になったともいえる。
しかし、どんなオックスフォード大学贔屓でも、町や町を取り巻く自然の美しさ、ノーベル賞受賞者数の圧倒的な差は認めざるを得ないだろう。
● 守り育てた景観が心の内部から人を育てる。
時代に磨かれた、手付かずのあるがままの自然を大切にしたい。
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09:01
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2012年03月14日
長谷川等伯展
精緻さと華麗な色使い、仏画、枯淡の水墨の世界。
東京国立博物館に 「 没後400年展 」 を見に出かけた。


90分待ちの長蛇の列、今迄で最長の待ち時間。
◎ 等伯は、修業を想起させる精緻な作風の時期を経て、エネルギーに満ちた画風で花を咲かせたかと思えば、水墨でモノクローム深みの探究に転じる。安土桃山時代に為政者の信頼を得つつあった狩野派と競うように腕を磨き、一代を終えた絵師の力を思い知ることが出来る。1539年、能登・七尾の武士の家に生まれた等伯は初め信春と名乗り、仏画を多く描いた。華やかで手の込んだ初期の仏画の数々を見るだけでも、素質を知るには十分。
特筆すべきは、大胆で華やかな京都・地積院の 「 楓図壁貼付 」 と、枯淡の極致とされる東京国立博物館蔵の 「 松林図屏風 」 という、対照的な趣を持つ名作が同じ会場で見られることだろう。

「 楓図壁貼付 」 の巨木を前にすると当時の権力者、豊臣秀吉を象徴しているのか、絵師自身の栄華をなぞらえたのか、といった想像が膨らむ。人間の姿態のような太い幹と、画面を細かく彩る花や紅葉を、桃山という時代の華やかで力強い空気の表れと見ると、歴史が身近になってくる。

一方、木を画題にしながらも実は空気を描きたかったのではないかと思わせる 「 松林図屏風 」。 もともとこの絵は、紙の質などから考えて画稿だったという説が有力だという。下書きゆえ、絵師の心がより直接的に表れたと見たい。
長谷川等伯展より
● 私(増澤)思いますに、執拗な写実に見入るばかり。また、墨絵の余白の白に、なるほど空気の流れを感じた。しかしながら、お説のように本絵の為の下書きだとしたら、出来上がりの素晴らしさに思いを馳せながら、未完成の力強さをそこに見ることが出来る ( 設計のエスキースが力強いのと同じように・・・けれども打ち合わせしていくと徐々にしぼんでいく事も多々ある、せめて最初のイメージが五割残れば大成功 )。 時に墨絵には色さえも浮かぶ。
○ 枯木猿猴図 ( こぼくえんこうず )

○ 恵比須大黒花鳥図


● 蛇に睨まれた蛙の如く、鳥に睨まれた虫、 射るような目線、逃げられない、縮み上がってしまいました。
○ 萩芒図屏風 ( 萩部分のみ )

● 私(増澤)、松岡正剛 『 山水思想 』 より等伯山水言葉遊びをしてみました。

◎ 現代美術家の 天明屋 尚さんはこう述べています: BASARA絵師 等伯。
戦国武将が群雄割拠した桃山時代は絢爛豪華なBASARAの黄金期であり、戦国期を代表するアイテムといえる。
水墨画も有名だがここでは「 楓図壁貼付 」 を挙げたい。金箔をぜいたくに使い、真ん中に巨木化した豪壮な楓、周辺に色とりどりの草花をあしらい、群青の水景をアクセントにど派手な美を表わした。
大徳寺三玄院にある別の襖絵には、こんな逸話が残る。等伯が同院に襖絵を描くことを願い出たところ、却下された為、和尚の留守に一気呵成に描き上げて立ち去ったというのだ。ためらいなく瞬時に描く行為。さながら現代の即興ペイントするアートの元祖ともいえよう。
大名のお抱え絵師として一大勢力を築いた狩野派に真っ向から対抗し、下克上を突きつけたのが長谷川等伯だ。
そんな反骨精神が、BASARA絵師に似つかわしい。
● 先人の美意識にただただ感服の一日でした。
東京国立博物館に 「 没後400年展 」 を見に出かけた。


90分待ちの長蛇の列、今迄で最長の待ち時間。
◎ 等伯は、修業を想起させる精緻な作風の時期を経て、エネルギーに満ちた画風で花を咲かせたかと思えば、水墨でモノクローム深みの探究に転じる。安土桃山時代に為政者の信頼を得つつあった狩野派と競うように腕を磨き、一代を終えた絵師の力を思い知ることが出来る。1539年、能登・七尾の武士の家に生まれた等伯は初め信春と名乗り、仏画を多く描いた。華やかで手の込んだ初期の仏画の数々を見るだけでも、素質を知るには十分。
特筆すべきは、大胆で華やかな京都・地積院の 「 楓図壁貼付 」 と、枯淡の極致とされる東京国立博物館蔵の 「 松林図屏風 」 という、対照的な趣を持つ名作が同じ会場で見られることだろう。

「 楓図壁貼付 」 の巨木を前にすると当時の権力者、豊臣秀吉を象徴しているのか、絵師自身の栄華をなぞらえたのか、といった想像が膨らむ。人間の姿態のような太い幹と、画面を細かく彩る花や紅葉を、桃山という時代の華やかで力強い空気の表れと見ると、歴史が身近になってくる。

一方、木を画題にしながらも実は空気を描きたかったのではないかと思わせる 「 松林図屏風 」。 もともとこの絵は、紙の質などから考えて画稿だったという説が有力だという。下書きゆえ、絵師の心がより直接的に表れたと見たい。
長谷川等伯展より
● 私(増澤)思いますに、執拗な写実に見入るばかり。また、墨絵の余白の白に、なるほど空気の流れを感じた。しかしながら、お説のように本絵の為の下書きだとしたら、出来上がりの素晴らしさに思いを馳せながら、未完成の力強さをそこに見ることが出来る ( 設計のエスキースが力強いのと同じように・・・けれども打ち合わせしていくと徐々にしぼんでいく事も多々ある、せめて最初のイメージが五割残れば大成功 )。 時に墨絵には色さえも浮かぶ。
○ 枯木猿猴図 ( こぼくえんこうず )

○ 恵比須大黒花鳥図


● 蛇に睨まれた蛙の如く、鳥に睨まれた虫、 射るような目線、逃げられない、縮み上がってしまいました。
○ 萩芒図屏風 ( 萩部分のみ )

● 私(増澤)、松岡正剛 『 山水思想 』 より等伯山水言葉遊びをしてみました。

◎ 現代美術家の 天明屋 尚さんはこう述べています: BASARA絵師 等伯。
戦国武将が群雄割拠した桃山時代は絢爛豪華なBASARAの黄金期であり、戦国期を代表するアイテムといえる。
水墨画も有名だがここでは「 楓図壁貼付 」 を挙げたい。金箔をぜいたくに使い、真ん中に巨木化した豪壮な楓、周辺に色とりどりの草花をあしらい、群青の水景をアクセントにど派手な美を表わした。
大徳寺三玄院にある別の襖絵には、こんな逸話が残る。等伯が同院に襖絵を描くことを願い出たところ、却下された為、和尚の留守に一気呵成に描き上げて立ち去ったというのだ。ためらいなく瞬時に描く行為。さながら現代の即興ペイントするアートの元祖ともいえよう。
大名のお抱え絵師として一大勢力を築いた狩野派に真っ向から対抗し、下克上を突きつけたのが長谷川等伯だ。
そんな反骨精神が、BASARA絵師に似つかわしい。
● 先人の美意識にただただ感服の一日でした。
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20:12
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2012年03月05日
MY辞書より・その4 ( 遊 )
● 私(増澤)の好きな白川さんのことから。
◎ 一番好きな言葉は 『 遊 』 白川静はそう語っていた。
< 遊ぶものは神である。神のみが遊ぶことが出来た。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことが出来た >

白川が雑誌 『 遊 』 に連載したのは昭和53年から54年にかけて。執筆を依頼した当時の編集長、松岡正剛さんによると、誌名と好きな言葉が一致しているのは偶然だったようだ。 「 一番好きな言葉が 『 遊 』 だったというのは、ずいぶん後から知りました。うれしかったですねえ 」
遊: それは、隠れたる神の出遊を意味する、と白川は説く。
< かつて世界は、閉ざされた空間であった > どこへでもでかけることができて、この地上のどんな辺境のことでも映像や情報を共有してしまっている現代人には、想像しにくい。だけど < 古い時代には、見知らぬ地には悪霊がみちみちていた > のだ。生活空間を広げるのは、簡単に出来ることではなかった。異民族や野生動物や悪天候や地勢・・・・。出かけることさえ命がけで 「 呪力 」 の助けを必要とした。
冒頭に記した 「 遊字論 」 の一文は、こんな風に続いていく。
< 遊とはうごくことである。常には動かざるものが動く時に、遊は意味的な行為となる。(中略)神は常には隠れたるものである。それは尋ねることによって、はじめて所在の知られるものであった >
松岡正剛は自著 「 遊行の博物学 」 の中でこう述べています:
どの民族の文化史においてもそうであったように、この国にも、二種類の遊び方があったようだ。それをごくおおざっぱに言えば、 「 神の遊び 」 と 「 人の遊び 」 である。まず 「 神の遊び 」 は今でも 「 あそばします 」 とか 「 御覧あそばせ 」 などという言葉がつかわれている。のべつまくなしにつかわれるわけではない。本来は過分の客にたいしてつかわれる。さらに本来は神についてつかわれた。あそばしますもの、それは神において遊ばせるということだ。
神はときおり出遊するものである。かならずしも鎮座していない。たとえば神無月という言葉は、神々が出雲へ遊びに出かけてしまって各神社が留守になったという月のことをいう。・・・中略、
「 神の遊び 」 にたいして 「 人の遊び 」 がある。分類すればこのようになるのだが、むろん当初はこのふたつは神人交感してつながっていた。 「 人の遊び 」 はまず 「 神の遊び 」 をもてなすことにはじまった。もてなすには相手を知る必要がある。しかも相手は神である。とりあえずは神の力を借りてみるしかなかった。 云々。
● ・・・で私(増澤)、新聞の 「 かんのん道をゆく 」 を読んでいて、はたと気がついた。 ( 観音さまは男なのか女なのか、論争は後で述べるとして )
これは、 9世紀・平安時代前期 法華寺 「 十一面観音立像 」 です。

○ 唇の赤さ、眼の黒さ、量感豊かな体が妖しい美を放射する。光明皇后の伝承で親しまれている。
右足に注目したい。親指をわずかに反らせ、一歩、見る者の方へ踏み出す気配を見せている。 『 遊び足 』 といい、優雅で女性らしいたおやかさである。
● 動きを表現することは、動かないものの心を表現することである。そして動こうとする心が ‘ 遊び心 ’ に通ずるとは・・・。観音さまは、どこに向かって動こうとしているのか、崇高で艶めかしい遊行のお姿。
もう一度、写真左下、右足の 『 遊び足 』 をご覧いただきたい。
● 若手能楽師の観世喜正さんが能の粋を今に伝えるべく 「 能楽神遊(かみあそび) 」 という会を結成して15年になるという。能楽のもとは、寺社の祭事における平和と五穀豊穣を祈願する翁猿楽という芸能だ。会の名前は 「 八百万の神遊(あそび)、これぞ神楽のはじめなる 」 という謡の一節から名付けたという。ここでも神の遊びと人の遊びが ‘ 感謝の気持ち ’ を繋ぎとして連綿と続いていることを思うと、神の出遊は気まぐれではなく 「 季節のみのり 」 に合わせた人の営みと重なっている。
○ ここでもう一つの MY辞書より
古来男性を表わした観音像、優しい女性的な姿で魅了:
仏教では世界を地獄界から仏界まで十界に区分する。このうち、声聞、縁覚、菩薩、仏の四界は悟りの世界で理想境とされる。これらの世界に住む者は絶対の力を持ち、休むことなく衆生を救うための努力を続けている。この菩薩界に、女性にみなされがちな観音がいるのだが、四つの悟りの世界にいるのは男性だけなのである。観音菩薩を含め菩薩はすべて男性なのだ。よく見るとヒゲの有るものもある。
● 私(増澤)思いますに、優しさゆえに女性的でもあり、両性具有ともとれる。阿修羅像など美少女風美少年でなまめかしい。
じっとしていては面白くない。
遊びに動き出す心の変化、そして、心の動きに伴う具体的な初動に表れるのが観音様の 「 遊び足 」 とすると、足を動かさなければ心が動けないという逆説にも通じているようにも思える。足の動きが、心の変化を伴って私の心に訴えてくる。ならば遊び心の第一歩にみる ‘ 足 ’ の表情に、奥ゆかしくも艶めかしい人の営みを感ずる。
そろそろ “ 私も動いてみようか ” と 下世話な遊び心が疼き出す!
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09:31
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2012年02月28日
土偶

● 近頃、合掌し深々と頭を垂れることを気恥ずかしいと思わず、自然とそれが出来るようになった。
若くして亡くなった友や先輩・後輩、多くの仕事仲間たち。又、人生の円熟余生の入り口で連れ合いに先立たれた友人のことを思うと、心の中で深いため息が漏れ、目を閉じて祈らずにはいられない。
○ これは俗に言う 縄文のビーナスです

◎ 眺めていると深い安らぎを覚えるから不思議だ。ゆったりとしたパワーも伝わってくる。国立博物館で開催中の 「 土偶展 」 に勢揃いした、縄文時代の偶像たちである。力強くユーモラスで、どこか悲しげな姿が人々の心を打つ。
土偶にどんな役割があったか、はっきりとは分からないという。しかし女性の特徴をうんと誇張した造形や奇抜な表情には、生命をいとおしむ気持ちが込められているに違いない。長命や安産を祈り、食の豊かなることを願った縄文人の精神世界が知れる。厳しい自然と闘いながら、この時代は1万年も続いた。・・・・・中略
展覧会の花形の一つは、昨年国宝に指定されたばかりの 「 合掌土偶 」 だ。うずくまって両手を合わせ、ひたすら祈りをささげてように見える。しかし、それも現代人の解釈ではあろう。かの時代の作者はなにか意外なポーズをかたどってみたのかもしれない。想像力をかきたててやまぬ、われらが先祖なのだ ― 日経、春秋より。
○ 立像土偶

○ 遮光器土偶 ( 目がシャッターのようになっている為の呼称 )

○ 仮面土偶

○ 合掌土偶

● 私(増澤)思いますに、猪や、仮面だけの物もあるが、なによりも古代人が自分自身をどう見ていたのかが面白い。そしてデザイン化しているのがすごい。1万年も続いた縄文時代の遺品としての土偶の数々に、ゆったりとした人の営みを感ずる。
ちなみに、合掌土偶は求愛のポーズかもしれないと思っているが、座っての求愛はいささか怠惰な行為だし・・・ならば、立って手でも握ればいいんだろうが、それでは本旨から外れる。諸々の超えがたきものに対しての畏敬の念、跪く気持ちが美しい。
想いいれ ( 心 ) が形を創る。そんなことを思う。
男か女か?・・・・よく見ると胸にベーゴマのようなポツが二つある。装身具も身に纏っているとこをみると、女か・・・ひょっとすると、出産のポーズかもしれない。
小さいベーゴマのようなポツだから男かもしれないし、マサイ族の戦士が装身具をつけていることを思うと、男か? ならば、戦いの祈りのポーズかもしれない。
暗闇にいにしえの土人形たちがきらきらと息づいて、今の私とつながっている。
Posted by masuzawa05 at
09:01
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2012年02月20日
逆境について
若き日の 『 逆境 』 が最大の財産に

私は中学二年のときに父親を亡くしました。二人の弟がいて家計はきつかったですね。それで中学を出ると、働きながら、近所にあった定時制の高校に通いました。授業は午後六時前から九時ぐらいまで。それから約一時間、柔道に励みました。冬の稽古は大変でした。畳が凍えるように冷たくて、家に帰ると、出始めたばかりのインスタントラーメンで空腹を満たしました。そのおかげで生き永らえることができたと言ったら、少し大げさかな。日曜は昼まで寝ていました。そうしないと体がもちませんでした。
そんな日々も昼と夜で2人分の人生が一度に体験できるのだからと、幸せな気分でした。余計なことを考える時間が無いので、ささいなことで悩んだり、迷ったりすることもなかったですね。 「 三つ子の魂百まで 」 ではありませんが、いまだに昼も夜も働いています。それが癖になってしまって、まるで苦にならないのです。
もし父親が田畑を一町歩 ( 約3,000坪 ) も残してくれていたら、何も苦労せずに暮らせたかもしれません。でも、それでは今日の自分はなかった。ものをつくるより遺産を守るのにきゅうきゅうとしていたでしょう。その意味で、若いころに 「 逆境 」 を味わったことは、私に与えられた最大の財産になりました。高校を出て食品関係の仕事をした後、機械の行商で全国を回りました。そこで中古パチンコ台を改造したゲーム機と出合ったことがアミューズメントの世界に足を踏み入れるきっかけになりました。・・・
ゲーム機はお金を入れても何も出てこず、腹の足しにはなりません。それなのに、みんな熱くなって、繰り返しお金を入れて遊んでいるのです。それを見て 「 これはいける 」と直感しました。日本もやがて衣食住が足りて、ゲーム産業が脚光を浴びる時代が必ずやって来ると。
仕事を成功に導く一番大切なポイントは着想です。 「 想 」 はアイデア。いくらでも浮かんできますよね。その中から、目先の損得ではなく、自分の力量に見合った分野に狙いを定めるプロセスが着想です。後は決断し、変化に対応していけるよう創意工夫をする。コンピューターが何でも処理してくれる時代になっても、この3つだけは人間にしかできないことだと思います
ゲームソフトは生活の必需品ではありません。それを買っていただくためには自社にしかなく、かつ、一流のレベルにまで達した物でなければなりません。そもそも、ものづくりというのは出来が悪かったら、もう一度初めからやり直し、一番いいものを作るようにするのが王道です。いくら頑張ったからといって、マイナスの要素を残したまま見切り発車するようなことは許されません。仮にうまく立ち上がったとしても、絶対に長続きしません。これは私の経営ポリシーでもあります。
―以上、日経 「 今、若者たちへ 」 次世代に送るメッセージより抜粋
● いま、私(増澤)、ひと回り歳上の叔父のことを思い出しています。
76歳になる叔父は、家庭の事情で中学卒業後東京に働きに出され、その後家に戻り、今は亡き祖母の農業を手伝いながら、地元の定時制高校に通っていました。私が小学校高学年の頃でしたから、もう半世紀も昔のことです。
当時、柔道部に所属していて、何度か稽古に連れて行ってもらいました。当時の定時制高校の生徒は私の叔父も含めて、歳のいった学生が多く、又昼間働き夜間勉強するというオジサン揃いで、投げを掛けに背負うと重さでつぶれてしまうのがしょっちゅうで、笑われながらも可愛がってもらいました。そのせいか体が小さかった私でしたが、小学・中学を通じ相撲は強かった。長じては空手道に目覚めました。
閑話休題、
そんなセピア色の思い出も懐かしく感じる年齢になりました。
『 逆境 』 という言葉を知っている若い人がどれだけいるだろうか?
つらい悲しい言葉だが、反面 『 それをバネにがんばる 』 とか 『 努力 』 という言葉通り、苦境を克服して福となすバイタリティーがあった。それが日本人の勤勉さにつながっていたように思えるのだが・・・・。
近頃は 『 逆境に耐えてひたむきに生きる 』 とか、そんな言葉が死語になるほど豊かになったのでしょうか・・・そうであれば嬉しいことですが・・・辻本さんの思い出が叔父と私の思い出に重なりました。 “ 逆境・耐える・ひたむき ” 忘れないでおこうと思います。
自分にとって不都合なことは、世の中が生んだことで、全て他人やほかのことのせいにする世相は如何なものか・・・。 と、思っています。
● 不都合を
着想
決断
創意工夫 で乗り切る知恵の存在をあらためて思わずにはいられません。
● 生業としての旅館の設計:
子供の頃、父親に連れられ寿司屋でお昼を食べ、その足で温泉旅館に泊まった思い出が一度だけあります。一介のサラリーマンの家庭では、寿司屋ですしをつまみ、旅館に泊まることはなかなかできない “ とっておきのお晴れ ” なことでした。
時代は移り、家族で温泉旅行に行くことも多くなりましたが・・・。
『 旅館は お晴れ の空間 』 であり続けたいと思っています。
お晴れが有るからこそ頑張れるのかもしれません。
確かに、旅館は生活の必需品ではありません。
けれども泊まりたいと思わせるものはなにか。
先ずは、もてなす側の日常がハッピーで明るくなければなりません。もてなす側の暗い感じの宿に泊まるとするとゾッとします。
身の丈にあった 「 着想 」 で地道にお客様のことを考えた諸々を実行する 「 勇気をもった決断 」、困難に出会ったときの 「 創意工夫 」 が設計者、もてなす旅館側、双方に必要ではないでしょうか。
新聞を読んでいてそんなことを思った次第です。
Posted by masuzawa05 at
18:41
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2012年02月13日
建築士会研修の旅
私が支部長だった頃(20年前)は80名から居た熱海の建築士会会員も、徐々に減少をたどり、このたびの公益法人化とともに東・中・西に大括りされ、現状は東部支部熱海地区だけで38人の小所帯になってしまった。
マイクロバスを貸し切って9人での妻籠宿・飛騨・下呂温泉の一泊旅行は和気藹々、賑やかな道中となった。

これは水明館さんの若女将をまじえての集合写真です。

立ち寄った東濃桧の製材場では目から鱗、いろいろの発見があった。

「 東濃桧 」 : 年輪の目の詰まった香り高き最高級の建築材。気温・湿度・日照・降水など、桧の育成に理想的な風土である岐阜県東濃地方。ここから産出される年輪のつまった良質の材を 「 東濃桧 」 と呼びます。
ここの桧材は、急峻な山に特有の弱乾生土壌と、厳しい冬の寒気が造り上げた独特なきめの細かさ、高密度な粘り強さが特質の木です。材色は淡いピンクで品があり、木目が美しく節が少ないのが特徴です。
● 発見その一

この丸太材齢100年、4M物で150角の柱が取れて一本35,000円。幾星霜を経たこの材でこの値段、安いと思われませんか。
● 発見その二

これは天然物、年輪が細かい。

これは植林物、年輪が荒い。
● 発見その三

傷のように見えるのが枝打ちした枝の痕跡です。若木の頃に枝打ちすれば、角材に挽いたときに表面に出ない。一般的には若木(ビール瓶ぐらいの太さ)の時に枝打ちすると良い。昔は枝打ちに補助金が出たそうですが、今は無いそうです。その分良質の材が得にくくなっている。
● 発見その四
年輪も先端の方は少なく、木も筍のようになっている。
又、写真は撮り忘れましたが、台風による風害が桧の皮から読み取れて、いつ頃の台風か分かるのだそうです。これは確か伊勢湾台風の頃でとか仰ってました。
● 発見その五


杉の削り丸太を、腐りにくく顔浸し、杭に使用する。アースオーガー併用で杭基礎を造る。しなやかで腐りにくく折れにくい。地盤の悪い木造などの基礎に良さそうです。

● 過日、伊豆の修善寺で伊豆流域林業活性化センターの講演会が有りました。
低層建築物をなるべく木造で作って欲しい。日本の林業の活性化のためには木材の地産地消を推し進めたいとの意向でした。
地域によって木材強度にバラツキがあり、強度と大量調達には問題が残るものの、個々の住宅等には十二分に応えることができる。
構造計算上、又材の調達からいって、6mごとに桧の120角の柱を立ててラーメンフレームを組めばかなりの規模までの木造建物が出来る。( 最高高さ13m、軒高9m、床面積1,000屐,糧楼脇發如 法‘本は木の文化の国です、挑戦してみましょう。
● 長い年月の丹精が木造建築を支えていると思うと、頭が下がる思いです。ハイテク技
術に支えられ、人肌に優しい木造の建物に囲まれたスローライフな暮らしが、これからの日本人のライフスタイルにいちばん合うのではないでしょうか。公共建築物を木造で作る為の勉強を個人的にはしたいと思っています。
我々設計者もいろいろ見学研修の必要性を感じた次第です。
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19:52
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2012年02月06日
英詩訳・百人一首
“ いにしえの感性、香り立つやまとごころ ”

「 One Hundred Poems, One Poem Each. 」
● ドナルド・キーン博士が絶賛する、ピーター・マクミランの 「 小倉百人一首 」 を書評で知った。なにやらの興味と、歌留多でうろ覚えの三十一文字の読解に挑戦しようと思った。
『 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ 』 光孝天皇
For you,
I went out to the fields
to pick the first spring greens
all the while on my sleeves
a light snow falling.
「 これは、今までのところ、もっとも卓越した名訳である 」− ドナルド・キーン
● 私(増澤)、理系の頭では、上記の歌ぐらいの解釈がせいぜいで、古典(文語体)の読みくだしが出来ないもどかしさ・・・。もっとも、英語力が堪能で感性豊かであれば、そちらから理解し問題が無いのだが、英語の方はもっとあやしい情けなさ。
恥を忍んで女房に解説文(漫画イラスト入り)の本を借り六十路の貧脳の虎の巻とした。
そこで、日本語の解説文、英訳本を別々に読んで、なるほどと納得・感動が重複したものを自分勝手に取り上げることにしてみた。
◎ 四: 山辺赤人
『 田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ 』
Sailing out on the white crests ( crest:波頭 )
of the Bay of Tago, I look up
There before me
even more dazzling− ( dazzling:目もくらむほどの )
snow still falling ( still:静かに )
on Fuji crowned in white
○ 田子の浦に出でてはるか彼方を眺めて見ると、真白な富士山の高い嶺に雪が降り続いていることよ。
◎ 九: 小野小町
『 花の色は 移りにけりな いたづらに わが見世にふる ながめせし間に 』
A life in vain. ( vain: むなしい )
My looks, talents faded ( talent: 才能、fade:褪せること )
like these cherry blossoms
paling in the endless rains ( paling:<色が>薄くなる )
that I gaze out upon, alone. ( gaze:何かをじっと見つめる )
○ 美しい桜の花の色はすっかり褪せてしまったよ、むなしく春の長雨が降っている間に、私の器量もすっかり衰えてしまった。むなしくこの世を過ごし、物思いにふけっている間に。
◎ 四十: 平兼盛
『 忍ぶれど 色に出でにけり 我が恋は 物や思ふと 人の問ふまで 』
Though I try to keep it secret,
my deep love
shows in the blush on my face. ( blush:赤面する )
Others keep asking me
-----Who are you thinking of ?
○ 人に知られまいと心に秘めてきたが、私の恋心はとうとう顔色に出てしまったよ。「 なにか物思いをしているの 」 と人が尋ねるほどに。
◎ 六十一: 伊勢大輔 ( いせの・たいふ )
『 いにしえの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな 』
The eightfold cherry blossoms ( eightfold:八重の )
from Nara’s ancient capital
bloom afresh today
in the new palace of Kyoto
with its nine splendid gates ! ( splendid:華麗な )
○ その昔、華やかに栄えていた奈良の都で咲いた八重桜が、今日はこの九重の宮中で、色美しく咲ほこっている。
◎ 百: 順徳院
『 ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり 』
Memory ferns sprout in the eaves
of the old forsaken palace.
But however much I long for them,
they never will come back−
the days of old.
( memory:~を回想してしまう、ferns sprout: シダの芽、eaves:軒、forsaken:見捨てられた
Palace:宮殿、but however much:どんなに、long:思いこがれようとも )
○ 宮中の古く荒れ果てた軒の端に生えている忍び草を見るにつけても、いくら偲んでも偲びつくせないほど、恋しく懐かしい昔の御世であろうか。
( ももしき: 宮中の意、枕詞 「 ももしきの 」 から転じて内裏、皇居 )
◎ ありがたいことに、マクミランさんはこう述べています:
「 古いチェコの格言に “ 一つの言葉しか知らないものは、一つの人生しか知らない ” とあるように、日本の言葉と文化を学ぶことで、私は第二の人生と心を与えられたのである 」
そして、 「 私の知る限り、皇室や王室が詩作の伝統を支援している国は、世界でも日本だけである。それも精神的支援にとどまらず、自ら和歌を詠むという実践にまで及んでいる。 天皇家が詠まれた歌には優れたものが多い。最近の世界の王族の多くは、車や競馬、その他、過去の贅沢にばかり関心を向けている。その点、高い教養のある日本の天皇家は、国民が誇りにしていい文化の継承者であるといえよう 」
● 広きにわたる日本の文化の継承者である天皇家を、政治力誇示のカードとして扱う不埒な政府の要人は教養低く、友愛や日本の文化力を論じる資格が無い。そういうトップを戴く政党人、われわれ国民は恥ずかしく、そして哀れだと思っていたら先年失脚した。
年に一度の書道展に去年も出かけ、大先生との初めての記念写真に納まり、娘は教師コースに進まれたらとの推薦を受けた。娘の書いたひらがなの百人一首を見て、まだ固さの残るものの美しい字を書く日本人を誇らしく思い、続けたらと勧めた。英文科出身の書道家なんて素敵じゃないか。
「 One Hundred Poems、One Poem Each 」
本との出会いに感謝 !

「 One Hundred Poems, One Poem Each. 」
● ドナルド・キーン博士が絶賛する、ピーター・マクミランの 「 小倉百人一首 」 を書評で知った。なにやらの興味と、歌留多でうろ覚えの三十一文字の読解に挑戦しようと思った。
『 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ 』 光孝天皇
For you,
I went out to the fields
to pick the first spring greens
all the while on my sleeves
a light snow falling.
「 これは、今までのところ、もっとも卓越した名訳である 」− ドナルド・キーン
● 私(増澤)、理系の頭では、上記の歌ぐらいの解釈がせいぜいで、古典(文語体)の読みくだしが出来ないもどかしさ・・・。もっとも、英語力が堪能で感性豊かであれば、そちらから理解し問題が無いのだが、英語の方はもっとあやしい情けなさ。
恥を忍んで女房に解説文(漫画イラスト入り)の本を借り六十路の貧脳の虎の巻とした。
そこで、日本語の解説文、英訳本を別々に読んで、なるほどと納得・感動が重複したものを自分勝手に取り上げることにしてみた。
◎ 四: 山辺赤人
『 田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ 』
Sailing out on the white crests ( crest:波頭 )
of the Bay of Tago, I look up
There before me
even more dazzling− ( dazzling:目もくらむほどの )
snow still falling ( still:静かに )
on Fuji crowned in white
○ 田子の浦に出でてはるか彼方を眺めて見ると、真白な富士山の高い嶺に雪が降り続いていることよ。
◎ 九: 小野小町
『 花の色は 移りにけりな いたづらに わが見世にふる ながめせし間に 』
A life in vain. ( vain: むなしい )
My looks, talents faded ( talent: 才能、fade:褪せること )
like these cherry blossoms
paling in the endless rains ( paling:<色が>薄くなる )
that I gaze out upon, alone. ( gaze:何かをじっと見つめる )
○ 美しい桜の花の色はすっかり褪せてしまったよ、むなしく春の長雨が降っている間に、私の器量もすっかり衰えてしまった。むなしくこの世を過ごし、物思いにふけっている間に。
◎ 四十: 平兼盛
『 忍ぶれど 色に出でにけり 我が恋は 物や思ふと 人の問ふまで 』
Though I try to keep it secret,
my deep love
shows in the blush on my face. ( blush:赤面する )
Others keep asking me
-----Who are you thinking of ?
○ 人に知られまいと心に秘めてきたが、私の恋心はとうとう顔色に出てしまったよ。「 なにか物思いをしているの 」 と人が尋ねるほどに。
◎ 六十一: 伊勢大輔 ( いせの・たいふ )
『 いにしえの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな 』
The eightfold cherry blossoms ( eightfold:八重の )
from Nara’s ancient capital
bloom afresh today
in the new palace of Kyoto
with its nine splendid gates ! ( splendid:華麗な )
○ その昔、華やかに栄えていた奈良の都で咲いた八重桜が、今日はこの九重の宮中で、色美しく咲ほこっている。
◎ 百: 順徳院
『 ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり 』
Memory ferns sprout in the eaves
of the old forsaken palace.
But however much I long for them,
they never will come back−
the days of old.
( memory:~を回想してしまう、ferns sprout: シダの芽、eaves:軒、forsaken:見捨てられた
Palace:宮殿、but however much:どんなに、long:思いこがれようとも )
○ 宮中の古く荒れ果てた軒の端に生えている忍び草を見るにつけても、いくら偲んでも偲びつくせないほど、恋しく懐かしい昔の御世であろうか。
( ももしき: 宮中の意、枕詞 「 ももしきの 」 から転じて内裏、皇居 )
◎ ありがたいことに、マクミランさんはこう述べています:
「 古いチェコの格言に “ 一つの言葉しか知らないものは、一つの人生しか知らない ” とあるように、日本の言葉と文化を学ぶことで、私は第二の人生と心を与えられたのである 」
そして、 「 私の知る限り、皇室や王室が詩作の伝統を支援している国は、世界でも日本だけである。それも精神的支援にとどまらず、自ら和歌を詠むという実践にまで及んでいる。 天皇家が詠まれた歌には優れたものが多い。最近の世界の王族の多くは、車や競馬、その他、過去の贅沢にばかり関心を向けている。その点、高い教養のある日本の天皇家は、国民が誇りにしていい文化の継承者であるといえよう 」
● 広きにわたる日本の文化の継承者である天皇家を、政治力誇示のカードとして扱う不埒な政府の要人は教養低く、友愛や日本の文化力を論じる資格が無い。そういうトップを戴く政党人、われわれ国民は恥ずかしく、そして哀れだと思っていたら先年失脚した。
年に一度の書道展に去年も出かけ、大先生との初めての記念写真に納まり、娘は教師コースに進まれたらとの推薦を受けた。娘の書いたひらがなの百人一首を見て、まだ固さの残るものの美しい字を書く日本人を誇らしく思い、続けたらと勧めた。英文科出身の書道家なんて素敵じゃないか。
「 One Hundred Poems、One Poem Each 」
本との出会いに感謝 !
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08:59
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2012年01月30日
「 ボレロ 」
モーリス・バジャールが振付けた現代バレエの傑作 「 ボレロ 」。 1992年に世を去ったダンサー、ジョルジュ・ドンが 映画 「 愛と哀しみのボレロ 」 で主演をつとめ、バレエファン以外にも知られている。
ドン亡き後は、シルヴィ・ギエムさんが当たり役とした。

● ギエムさんが数年前から、自ら封印を宣言していた 「 ボレロ 」 を今、日本各地で公演している。
たまたまBSテレビで見て私(増澤)、熱い思いがこみ上げてきた。 「 HOPE JAPAN 」 と銘打った、東北大震災からの復興を願ったツアーだ。
ポスターデザインを高田賢三さんがしているのもすごい。

● 腹の底から響き渡る復興への情熱が、徐々に湧きあがりほとばしるのを感じた。

● 大震災からの復興という彼の地は、被災された人々にとってまさしく 「 正念場 」という悲願の 「 舞台 」 である。
彼女が 「 ボレロ 」 に託した、徐々に湧き上がり昂じる熱い感情の渦を伴ったシンプルで無駄のない舞踊は、 封印を解くに値する鎮魂の 「 正念場の舞 」 となった。
● 闘うバレエというタイトルの本を買った: ギエムさんは1997年二ヶ月にわたり39回の日本縦断公演をし、打ち上げの挨拶の席で、なぜかうっすらと涙を浮かべたという。
その時以来の熱い感情の発露が今回の公演に結びついているのだろうが、なんとシャイで温かい妖精のような人だ。
DVDで足跡を辿れば辿るほど、クラシックバレーに立脚し、感性の趣くままの創作バレエに、奥ゆかしい華を咲かせた人柄に惚れ惚れする。

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09:31
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2012年01月24日
今朝の食卓にて
以前母たちが泊まった、箱根のプリンスホテル系の旅館で、当時そこそこの値段で泊まったものの 「 朝の見送りもなく、失礼しちゃうね 」 という話しがあったことを思い出し、年寄りの風体を見るのかしらねえ、それにしても、ひところよりこのホテルも元気がないね・・・、ワンマンなオーナーが欠けるとダメなのかしらと言う様な話になった。
私がたしかこんな歌が有った 「 この世をば わがよとぞ思う もちづきの・・・ 」云々、然しながら名前が出てこない。お互いに 「 誰だっけ・・・、誰だっけ・・・ 」
菅原道真と言い家内に笑われ、平清盛と言っては明らかに違うと一蹴され、家内の言うには藤原の、藤原の・・・、 誰だっけ・・・。

『 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(「この世は 自分(道長)のためにあるものだ だから満月が欠けることもない」という意味)を詠んだ(『小右記』、原文漢文)。実資は丁重に返歌を断り、代わりに一同が和してこの「名歌」を詠ずることを提案し、公卿一同が繰り返し何度も詠った。この歌は道長の日記『御堂関白記』の、この宴会についての記述の中には記されていないが、道長に批判的な実資の日記に書き残されて後世に伝えられることになった 』
● この歌文面に無い、満月もやがては欠けてくると言う、驕りを戒める言葉と解釈していたのだが・・・たぶんそれでいいと思っている。
さて、そのことは後世の人がいろいろ言うことであって、明らかに悦に入っている満面の笑みだけで充分に気持ちがいい。
的を外した些細な気遣いばかりの小人が多くて、驕り昂ぶる豪胆さもたまにはいいもんだと思ったりもする。
● 同じ「 この世をば・・・」 でも、こんなのもある。

○ 十返舎一九は遺言として 「 死んでも湯潅(湯洗いして身を清めること)なんていらない。死んだら火葬にしてくれ 」 と残したそうで、遺言どうり火葬にされましたが、一九は花火を抱えていたらしく、火葬になった時に棺から花火が打ちあがって皆を仰天させた、と伝えられています。
● 全てにわたり洒落っ気があっていい。気に入っている。
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12:57
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2012年01月16日
ちょっといい話・その11
知的余生の方法 ( 同名の新潮新書より )

知的に生きることは
人生を何倍にも充実させる。
◎ 知的余生のための肉体について:
私は、九十五歳まで生きようとこれまで提唱してきた。この提案は、知的生活を送るためには何といっても 「 フィジカル・ベーシス 」 ( 肉体的基盤 ) が必要だと思うからだ。 * 肉体的基盤=physical basis
どんなに意気込んでも、寝込んでしまっては何もできはしない。若い頃なら病床の生活が知的にプラスになりうる。しかし老いてからは若いときの何倍も “ フィジカル・ベーシス ” が重要になる。イギリス人で世界的なベストセラーを著した美術評論家のP・G・ハマトンもその名著 「 知的生活 」 の中で指摘している。肉体的健康が “ 知的生活 ” の基礎になる、と。 “ 知的余生 ” にとってはさらに重要なものになるのだ。
○ 白川静先生の 「 脳健康法 」 :
漢学者の先生の知的興味の広さと深さに感心したことがある。以前対談させていただいたとき、九十五歳を過ぎたとは思えないほどお元気で、私が 「 たまには温泉や旅行などに出て気晴らしでもされるのですか 」 と尋ねると、 「 そういうことをやると、かえって続きません 」 と答えられた。そして、毎日規則正しく仕事をし、規則正しく散歩することが、 「 健康の秘訣 」 だとおっしゃった。
○ 中川秀恭先生の 「 宗教と余生 」 :
プロテスタント教会の代表的な学者だった先生は 「 九十五歳を過ぎた頃から、死して神の御許へ行くなどということすら考えなくなった 」 と百歳のときにおっしゃった。
九十五歳にもなると世の中に対する未練はもちろん、神や仏にすがろうという望みも、また死に対する恐怖すらなくなった境地に至るものらしい。これは、禅僧が厳しい修行をつんでやっとたどりつく境地と同じだろう。これほどの長寿というものは、 「 悟り 」の境地に達しうるものなのだ、と感心した。
● 私(増澤)、八十五までがせいぜいだろうと思っていたが、九十五歳ならまだ30年もある。ならば、気持ちだけでもゆとりを持って生きられる。
◎ 財産の考え方:
英語の諺に 「 Money is a good servant, but a bad master 」 というのがある。 「 金は良き召し使い、悪しき主人 」 お金や財産は、賢明に使えば実に良いものだが、お金に使われたらひどいことになるというのだ。
● なんとか製紙の馬鹿息子は一体なんなんだ。単なる馬鹿なのか!? そうだろう!
財産、つまり富のことだが、これは英語ではgoodの複数、goodsで表現する。ドイツ語でも同じで、グート( Gut ) の複数ギュ―ター( Guter )という。何を意味しているかといえば一目瞭然、財産と言うものは、もともと 「 良いもの 」 だということだ。
だから、常に使ってやればいい。しかも賢明なやり方で。賢明に使えば使うほど、お金はいい召使になる。
● お金の無い人はどうするんだという話になるが、お金が少ない人は少ないなりに工夫・節約すればいい。工夫する人にお金は巡ってくる。
それでも巡ってこない人はどうすればいいか・・・私にもわからないけど・・・・、ゼロということはないだろう。
ひょっとして金で買う “ もの ” が巡ってくるかもしれない。
泰然自若していれば、そのうち巡ってくるだろう。
◎ 読書家は長寿が多い:
「 仁者寿 」 と言う言葉が論語にある。この場合の 「 寿 」 と言う字は、慣例的に 「 いのちながし 」 と訓ずることになっている。 「 仁者は命長し 」 と言う言葉はなんとも素晴らしい響きがする。
「 脳の中ではさまざまなホルモンが作られている。このホルモンは脳のためにだけあるのではなく、脳が支配しているさまざまな器官に関係している。それで脳を働かせることは全身の健康に密接な関係がある 」 という学者の研究がある。ありがたい話である。
● 死んだ父・増澤三郎は、私が学生時代 「 本を買う 」 と言えば理由を問わずお金を出してくれた。
その内のほとんどが飲み代に消えたのだが、飲み代に消えた分だけ寿命は短くなるのだろうか・・・・であれば、罰が当たったということになるのだろう。
反面、酒場の人情の機微に触れることができた分だけ心豊かに生きてこれた、と自分勝手に納得している。
◎ 知を求めて生きる:
さて、年をとったら何事につけ頑張らないほうがいい、と言う人がいる。年をとってから何も求めずに生きるという生き方は、そう自分で決めて生きるのなら、それはそれでかまわないとおもうが、果たしてそうだろうか。
英文学の世界で先輩に当たる外山滋比古先生は、好きな俳句として滝瓢水の
「 浜までは 海女も蓑着る 時雨かな 」 を挙げておられるが、私も深く共感している。
この 「 海女 」 を自分の姿に見立てると、 「 浜 」 は死期になる。どうせ海に入るのだから、時雨だろうが濡れることなど気にしないで浜に向かえばいいのに、この海女は蓑を着るのだ。この 「 蓑 」 は私にとっては読書に当たる。 「 どうせ死ぬのだから何もしない 」 というのは、 「 どうせまた腹が減るのだから飯を食わない 」 に通ずる考え方ではないだろうか。
● 私(増澤)、おこがましくも還暦を過ぎて、 「 知的に恥をかく 」 生活をしようと思っています。 知らないこと、思慮に欠くことが、あまりにも多いからだ。
それでは、どう恥をかいたらいいのか、
指針とすべく、渡部さんが三十数年前に書かれた 「 知的生活の方法 」 を続いて読み始めました。
好きな言葉があります Way up there ( そこに至る道 )
Way : 道 、 方法 、 生き方 ・・・・・ 「 そこ 」 とは。
Posted by masuzawa05 at
18:28
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2012年01月06日
2012年の 春一番
好景気の竜巻が吹き昇るよう 今年も元気に働きます

●スタイリッシュでわかり易い 『 宿 』
●刺激的で豊かな 『 住まい 』
●商売繁盛の 『 お店 』
●採算性が良く使い易い 『 公共建築 』
●機能的で、美しく、後世に残る、環境の一員としての 『 空間芸術 』
目指します! ご支援よろしくお願いいたします。

●スタイリッシュでわかり易い 『 宿 』
●刺激的で豊かな 『 住まい 』
●商売繁盛の 『 お店 』
●採算性が良く使い易い 『 公共建築 』
●機能的で、美しく、後世に残る、環境の一員としての 『 空間芸術 』
目指します! ご支援よろしくお願いいたします。
Posted by masuzawa05 at
09:06
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2011年12月26日
ゴッホ展
ゴーギャンを取り上げたら Vincent Van Gogh を語らないわけにはいかない。

早速、新美術館に出掛けた

私(増澤)、高校時代美術部で油絵を描いていた。友人が描いた向日葵の絵を見てこいつには絶対かなわないと思ったことがある。今思えばあの色遣い、そして絵のタッチはゴッホを引きずっていた。
個人的には黄色が好きで、特にゴッホのヌクッとしたグリーンを含んだ黄色はたまらなく好きだ。
○ 曇り空の下の積み藁:
自然は重要な霊感と慰めの源だった。彼は荒れ狂う空の下の広大な小麦畑を3点描いた。そしてその後間もなく、この小麦の積みわらを描いた風景を戸外で製作したに違いない。部分的に曇り空を映している草地の水溜りから判断して雨模様の日であろう。

○ ヒバリの飛び立つ麦畑:
思わず引き込まれてしまうような動きの感覚である。鑑賞者は、まるで刈り取りの終わった畑の前に立っているかのようで、その背後では麦の穂が風に揺れている。

○ マルメロ、レモン、梨、葡萄:
ゴーギャンをして 「 黄色い静物画 」 と呼ばせた。

○ アルルの寝室:
今度もまたごく単純に自分の寝室を描いたものだが、色彩が大きな役割を成し、要するにこの絵を見れば、頭なり、あるいはむしろ、想像力が休まらなければならない。

○ ゴーギャンの椅子:
「 今や僕は想像で描き始めている 」 ゴッホはモデルなしで肖像画を描く妙案を思いついた。空っぽのいすは、普段そこに腰掛けている人物を表現できると考えたのである。

○ 種まく人:
ゴッホの眼には、ミレーの <種まく人> は “ 自然 ” 以上に確固とした存在で、ほかの何とも比較することが出来ない作例であった。
「 あそこにあるのはただの種まきではなくて、むしろ魂なのだ 」 大胆な構図は日本の版画からヒントを得ている。

○ 夕暮れの松ノ木

○ アイリス
背景の黄色と花瓶の置かれた台の黄土色に対して、紫のアイリスがまばゆく際立っている。

● 彼の経歴についていろいろ言われている。
ミレーに心酔していたとか、基本的な絵の勉強をしていないまったくの独学であるとか云々、私(増澤)、そんなことはどうでもいいじゃないかと思っている。テクニックを教わらずとも心で感じて描けばいいと思っているからで、彼の塗り重ねて見せる色の表情がいい。 そして、黄色がなによりも好きだ。
Posted by masuzawa05 at
16:57
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